磯崎功典(1) ヘルスサイエンス 朝5時の祈り 苦闘支える ビール会社超える大転換(私の履歴書)[2025/05/01 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1433文字 PDF有 書誌情報]
毎朝5時の日課がある。自宅で両親の位牌(いはい)に向かい会社と従業員、そのご家族の健康と無事を声に出して3分ほど祈る。自分の力ではどうにもならない時には、「おやじ、おふくろ、何とかしてくれ」と願をかける。
今から6年前も試練に遭い、すがる思いで祈っていた。
「ヘルスサイエンス事業を新たな経営の柱とする」。2019年2月14日、長期経営構想を発表する場で宣言した。もし社長になればぜひ取り組もうと温めていたのだ。就任から4年は海外事業の売却など経営立て直しに追われたが、ようやく攻めに出る。
しかしながら、投資家の反応は厳しく冷ややかだった。ある程度の予想はしていた。当社の歴史を振り返っても、1980年代に医薬事業に参入し、経営を支える規模に成長するまで30年はかかった。簡単ではない。「本当に投資効果が出るのか」「経営が不安定になる」。厳しい声がぶつけられ、株価は下がった。
何もしない方が楽かもしれないが、私は15年ほど前からキリンの将来に不安を感じていた。ビール事業は少子高齢化に加えて健康志向や世界的な規制強化といった逆風が吹く。もうひとつの医薬事業も創薬の難しい壁がある。これら2本柱だけでは企業としての存続がおぼつかない。
ならば両事業の発酵・バイオ技術と開発力を生かせる分野がないか。そこで人々の健康に資する新事業を温めてきたのだ。構想発表後にはスキンケアと健康食品を持つファンケルに3割出資するなど、すぐに投資を具体化させた。しかしバイオ関連グループ会社の品質問題など事故・事件も相次ぎ自信を失いかけた。
「緊急事態です」。投資家対応を担当するIR室からメールで連絡が入った。2019年10月7日のことだ。
「危機対応の練習だろうな」。アクティビスト(物言う株主)から攻め込まれたときにどう対応するか。数日前、プロジェクトチームが立ち上がり、近くシミュレーションをして備えを万全にしましょうと言われていた。
だが様子がおかしい。「本物の書簡が来たんです」。担当者が慌てている。リハーサルをするはずが、いきなり本番が始まってしまったのだ。
「キリンは本業のビールに集中すべきで、全ての多角化事業は売却・撤退を求める」。本社を訪れたアクティビストのトップは私に向かい言い切った。投資家との対話はとても重要だ。だが今回の要請は到底、受け入れられない。
なぜならば売却は、私の経営哲学に反するからだ。長年、社内で提唱してきたCSV(共有価値の創造)経営だ。詳細は後に記すが、社会課題の解決と経済価値の創出を同時に進めるもの。この理念があればこそのヘルスサイエンスであり、決して思いつきで始めた戦略ではない。
それでも「本当に正しい決断なのか」と不安に襲われるときもある。会社と従業員の運命を背負う重圧に眠れぬ夜があっても、ひるんではいられない。アクティビストの提案は6カ月の激闘の末、株主総会で否決され、会社の提案が圧倒的多数で承認された。
本業のビールと縁遠く傍流が長いキャリアだ。そんな私がトップに起用されたのは会社の方向を大転換する使命があるからだ。
振り返れば幾多の失敗と修羅場の連続だった。本来は臆病で心配性の自分がなぜやってこられたのか。次回は原点である高校時代の挫折について記す。これから1カ月、諦めない精神で歩んできた普通のサラリーマンの人生にお付き合いいただきたい。
(キリンホールディングス会長CEO)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
平井一夫(29) 感動を求めて 「プロジェクト希望」創設 子供の体験格差、解消へ貢献(私の履歴書)終[2025/04/30 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1377文字 PDF有 書誌情報]
私は経営者の頃から切り替えが早かった。仕事でどんなに厳しい場面に遭遇しても、オフになると引きずらない。
ソニー社長時代に周囲から散々に批判されていた時もそうだった。週末にはオープンカーを飛ばして仙台の牛タン屋さんに行ったり、愛知県長久手市にあるトヨタ博物館で先人たちが作ってきた名車の数々に見入ったり。
2018年にソニーの社長兼最高経営責任者(CEO)を退任すると、私は会長を1年、シニアアドバイザーを5年務めた。経営に口を出すことはなく実質的にはソニーを卒業した。次の人生へと切り替えたのだ。
とはいえ、社長の頃にはソニーをどうすべきかで頭がいっぱい。会長になって初めてなにをすべきか真剣に考えた。ずっと頭の中にあったのが、この国の未来を創っていく子供たちへの支援だった。私にはなにができるか。
組織を作らないと始まらないと思って相談したのがなじみの税理士さんと元秘書だった。彼女たちと話しているうちに浮かんだのが、子供の体験格差という課題だった。
現在、日本の子供の9人に1人が相対的貧困に苦しんでいるという。貧困は経済格差だけでなく教育の格差など様々な問題に波及する。この国の未来に関わる看過できない問題だ。その中で我々ができることは何かと考えたときに浮かんだアイデアが「体験格差の解消」だった。
私は恵まれた環境を与えてもらったと思っている。幼くして海外で暮らし、その時に身につけた英語や異なる文化を見る目は、後々まで人生を豊かにする土台となった。父には本当に色々なところに連れて行ってもらった。身の回りは驚きを与えてくれるソニーの家電で囲まれていた。よく考えれば、そのどれもが当たり前ではない。
人生を豊かにしてくれる感動体験の機会が限られる子供に何か貢献できないか。そう考えて創設したのが一般社団法人「プロジェクト希望」だ。目的は子供たちの体験格差をなくすことだ。そのためには「感動体験」を提供すべきではないか。
では、どんな体験を提供できるだろうか。正解なんて分からない。いつも手探りだ。映画観賞に行ってもらったり、一緒にスポーツ観戦に行ったり。
趣旨に賛同してくれた歌手のMISIAさんのライブに参加した時、圧巻の歌声に涙する中高生たちを見て、「これでいいんだ」とも思えた。ただ、こんなスペシャルな時間だけが正解ではなく、感動体験の形はもっと色々な形があっていいだろう。今は、そんなことを日々考えている。
ソニーで「KANDO」を会社の旗印に掲げた私が、まさか第二の人生でも感動を追い求める活動に取りかかろうとは。人生というのはどこかでなにかがつながっているのだろう。
40年余り前に音楽会社に就職した時には、まさか自分がソニーの社長となり、57歳で一線を退くなど夢にも思わなかった。本連載の冒頭では、子供の頃からどこに行っても異質な存在という目で見られてきたと振り返ったが、どこに行っても全力で駆け抜けてきたと思う。もちろん、妻の理子を筆頭に数多くの方々の助けに支えられながら。
私はまだ64歳。人生はまだまだこれからだ。子供たちに負けないように次なる感動を求めて歩き続けたい。
(ソニー元社長)
=おわり
あすからキリンホールディングス会長CEO 磯崎功典氏
【図・写真】退任後はソニーグループの経営には関わらず、第二の人生を歩んでいる
平井一夫(28) 卒業 機上で打ち明けた引退 成長モード、吉田さんに託す(私の履歴書)[2025/04/29 日本経済新聞 朝刊 34ページ 1367文字 PDF有 書誌情報]
ソニーの最高経営責任者(CEO)は膨大な時間を飛行機の中で過ごす。年明けもゆっくり過ごす暇などない。米ラスベガスで開かれるテクノロジー見本市の「CES」に向かうためだ。2017年は1月5日の開幕に先駆けて4日にソニー単独の記者会見を予定していた。
その会場へと向かう飛行機の中でのこと。同乗するCEO室長の井藤安博さんがこの1年の経営方針についてのブリーフィングを始めた。私はこう言って口を挟んだ。
「いや、実は俺もそろそろ潮時かなと思っていてね」
一瞬、キョトンとした井藤さんが「ええっ!」と大声を上げた。以前、本連載で辞任すべきだと考えたことがあると告白したが、その時とは違う。今度は本当に引退の意思を打ち明けたのだ。
当時は前回で触れた映画事業の立て直しのため井藤さんを伴ってロスに飛ぶ少し前のこと。引退と言っても、私が考えていたのは1年余り後の18年4月でのことだ。
この時はすでに意思が固まっていた。理由は様々だが、第1に体がボロボロで、120%の力を出し切れないと感じるようになっていたこと。そして第2に、あの「オートパイロット」の感覚が戻ってきてしまったことだ。
思えばこれが3度目だ。人心が荒廃し空中分解寸前だった米ゲーム子会社「SCEA」、そしてプレイステーション3の大不振に揺れたソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)でも、危機を乗り越えた後に私を襲った感覚だった。
「私がいなくてもソニーは自走してくれる」。こう実感したのは、井藤さんと同様にすぐ近くで私を支えてくれたスタッフの何気ないひと言だった。あれはなにかの飲み会の席だった。
「平井さんって、クライシスの時は火の中に飛び込むのに、平時になると人に任せてしまうんですね」
決して皮肉などではなく本音だったと思う。だからこそ、グサッときた。「その通りだ」と思ったのだ。四面楚歌(そか)の状態で、なにを言ってもネガティブに捉えられた頃とはどうも違う。燃えるものがないわけではないが、あの頃とはなにか感覚が違うといえば良いだろうか。
ただし、まだ油断できない。ソニーは巨額赤字からV字回復を果たしたが、それは危機を脱しただけで成長に向かうのはこれからだ。
そんな時に、私がトップにいていいのか。火の中に飛び込む情熱が足りない状態で、ソニーを正しく導けるのか。ほかに適任者がいるんじゃないだろうか。
こんなことを考えるようになったのだが、適任者はすぐ近くにいた。私の右腕となって奔走してくれている吉田憲一郎さんだ。彼なら成長モードに入ったソニーをドライブさせてくれる。私は、そんな思いを率直に吉田さんに伝えた。幸い、吉田さんは私の考えを理解してくれた。
こうして迎えた最後の決算報告会議。2018年4月のことで、すでに吉田さんへのバトンタッチは済ませている。幹部陣が集まる中で、財務部門の幹部が「最終的な数字はこうなりました」といってスライドに映る「734860」の数字を指し示した。
連結営業利益が7348億円に達したのだ。20年ぶりに過去最高を更新するものだった。予想していた水準だが、社内外の誰からも信頼されなかった6年前を思えば感無量。こうして私はソニーから「卒業」することになった。
(ソニー元社長)
【図・写真】吉田さん(右)に後を託した
平井一夫(27) 自走するソニー 「全社分社化」身軽に強く 映画子会社再建へ自らロスに(私の履歴書)[2025/04/28 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1401文字 PDF有 書誌情報]
26年ぶりの公募増資に先立つ2015年2月、我々は新しい3カ年の中期経営計画を発表した。株主から預かったお金をどれだけ有効に使って稼いでいるかを示すROE(自己資本利益率)を最も重視する経営指標とし、高収益企業へと生まれ変わるということが最大のメッセージだ。
ただ、メディアやアナリストが注目したのは、そのためにソニーが抱える事業をどんどん分社していくという方針だった。すでに分社していたテレビに続きビデオ&サウンド事業も切り出す。ほかの事業も分社化に向けた準備を進めると明言した。いってみれば「全社分社化」である。
私の狙いは「間接部門など重いものは本社に置いて、ビジネスに専念してください」だった。一見すると就任当時に掲げていた「ワン・ソニー」と逆行するようだが、そうではない。各事業が身軽になってそれぞれが強い集団になることが先決と考えた。
ちなみに、私が社長のバトンを託した吉田憲一郎さんは「各事業の進化を促進し、ポートフォリオの多様性を強みとする」ため、これを発展させた。21年に吉田さんはグループ本社機能に特化したソニーグループを設立し、各事業が子会社として連なる形へと大きく経営体制を変更したのだ。
実は吉田さんはかつて、右腕の十時裕樹さん(現ソニーグループ社長)らとともに「ソニー連邦制」なる構想を作ったという。1997年ごろのことで、出井伸之社長による「2010年のソニーを考える」というプロジェクトの一環だった。吉田さんにとっても胸に秘め続けた構想だったわけだ。
12年に社長に就任してからすでに3年が過ぎた。懸案のテレビは黒字化し、リストラは一巡した。半導体のイメージセンサーは供給が追いつかない状況だ。いよいよ坂道を上り始めたソニー。ただ、弱点も存在していた。映画子会社のソニー・ピクチャーズエンタテインメントだ。
もともとは1989年に買収したコロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメントなのだが、30年近くがたって初めて営業権の価値を見直すことにした。すると1121億円もの減損処理を迫られた。17年1月のことだ。当時はヒット作に恵まれず、収益源だったDVDの販売もネット配信に追いやられていた。
長年、ソニー・ピクチャーズのトップに君臨してきたマイケル・リントンさんは退任したが、後任が見当たらない。そこで私自身がロサンゼルスに渡って立て直しの陣頭指揮をとることになった。社長が子会社再建のために本社を空けるという異常な事態なのだろうが問題はない。東京には吉田さんがいるからだ。
ロスに渡った私には心強い相棒がいた。CEO室長の井藤安博さんだ。本連載で彼はEQ(心の知能指数)が高い男だと紹介したが、実務能力もピカイチだ。帰国子女ではないが実に流ちょうな英語も話す。渡米するとすぐに現地の幹部たちの懐に飛び込んだ。ハリウッドの世界は実に狭く、おしなべてプライドが高い。その壁を悠々と乗り越えていく「ヤス」にどれだけ助けられたことか。
結局、FOXテレビなどで活躍したアンソニー・ヴィンシクエラの獲得に成功し、トップを任せることになったが、井藤さんも兼務という形で映画に残ることになった。
優秀な人材に囲まれて自走し始めたソニーの経営。するとまたあの感覚が戻ってきた。「オートパイロット」だ。
(ソニー元社長)
【図・写真】井藤さん(右)は映画事業の立て直しでも活躍してくれた
平井一夫(26) ソニー愛を語れ 現場で本心の感動伝える 宝の山「ちゃんと見ているぞ」(私の履歴書)[2025/04/27 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1385文字 PDF有 書誌情報]
私は51歳でソニー社長になるまで、キャリアのほとんどを音楽とゲームで過ごしてきた。「エレキを知らない社長」と言われたが、ソニーの家電への愛にかけては誰にも負けない自信がある。立場上そう言っているのではなく本当に自信があるのだ。
そもそも父がソニーの大ファンで、物心がつく頃にはソニーの家電で囲まれていた。よく「その中で1番は」と聞かれるが、実に難しい。それでもひとつだけ挙げろと言われれば5インチ画面のマイクロテレビ「TV5―303」だ。
ひとつ前のモデルにあたる「TV8―301」は、自社開発の大出力シリコントランジスタを使ったソニー初のテレビだ。創業者の井深大さんが「正月に見た夢」を実現させた製品として語り継がれている。ちょうど私が生まれた1960年の発売だ。その後継モデルで画面をさらに小型化したのが「TV5―303」だった。
当初は専門家たちの間で「売れるわけがない」と酷評されたが、いざ発売すると全米で爆発的に売れたという。まさに井深さんの「市場創造」の精神を象徴する製品だ。もっとも、幼い私は素朴に「どうやったらこんなにちっちゃな画面にテレビが映るの?」と、不思議に思ったことをうっすらと覚えている。
機械少年だった私にとっての宝物がBCLラジオ「スカイセンサー」だ。秋葉原に買いに行ったとき、本命の「ICF―5900」は価格的に手が届かず、1世代前の「5800」で我慢したのだが、それでも大切に使い続けた。
機械と言えばカメラを忘れてはいけない。最初に父から与えられたのはキヤノン製で、休日になると電車を撮りに出かけた。今ではもちろんソニーの「α」だ。
少し長くなってしまったが、ソニーの技術者たちが創り出す商品への愛情は経営者となったときにちょっとした武器となった。例えば、技術者の牙城である厚木テクノロジーセンター(神奈川県厚木市)。社長時代に何度ここに足を運んだのか分からない。
いくつか心がけていたことがある。「こんなすごいものがあるんだ」と思ったらそれをなるべくストレートに技術者に伝えること。演技ではない。本心からの感動を伝えるのだ。そして興味の赴くままに質問攻めにする。
例えば、真っ暗闇の中でもモノの形を正確に捉えるイメージセンサーを紹介された時のこと。どうやったらそんなことができるのか、徹底的に聞く。その上でここはいっちょ鼻を明かしてやろうとアラを探す。
「カンカン照りの太陽の下だったらどうなるの?」
「いや、まだそこまでは」
技術者が言いよどんだらチャンスだ。「次に来るときには必ずまた会いに来るから進捗を聞かせてよ」と伝える。進捗がなくてもかまわない。なければないで、その間の取り組みをしっかりと聞く。「ちゃんと見ているぞ」と伝えることに意味があるのだ。
エレキ部門の不振はソニー衰退の象徴のように語られてきた。だが、現場には山のように宝が眠っていたのだ。
私は新生ソニーが目指すものとして「KANDO」を掲げた。ソニーの1番のファンを自認する私の役割は現場に眠るKANDO(感動)を発掘し、作り手の魂に灯をともし、世の中に解き放つこと。そのためには何度でも足を運び同じことを言い続けなければと考えた。皆さんの周りにも感動を覚えるようなソニー製品があれば幸いだ。(ソニー元社長)
【図・写真】カメラについて話し始めると止まらない
平井一夫(25) 「もう潮時です」 無配決め自ら辞任を口に 考え改め 資金調達に乗り出す(私の履歴書)[2025/04/26 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1348文字 PDF有 書誌情報]
2014年は私にとって最も厳しい一年となった。
2月にテレビの分社やパソコン売却、人員削減などを決めたが、9月にはモバイル事業で1800億円の減損が出ることを公表した。さらなる業績悪化は避けられない。私と財務を預かる吉田憲一郎さんは、1958年の上場以来初となる無配を決めた。
経営者にとって株主からの信頼を裏切る無配は悪夢だ。もちろん私にも抵抗があった。だが、断固として譲らなかったのが吉田さんだった。この年から最高財務責任者(CFO)として市場との対話の責任者を務めてくれていた彼にとっては、私以上に苦痛を伴う決断だったはずだ。
記者会見で私は黒字化に向けて「不退転の決意だ」と話したが、この年度も最終損益は2年連続の赤字に沈んだ。
ちょうどこの頃だったと思う。これまで明かしたことがない事実なのだが、私は辞任を口にしたことがある。
「もう責任を取って自分で自分のクビを切るしかないですよね」
メンバーは覚えていないが、ごく少人数でのミーティングの席上だった。「もう潮時です」。諦めたように言うと、皆が言葉を飲み込んだ。ここまでマスコミや株主、OBなどから散々たたかれてきた。四面楚歌(そか)の状況でも「言わせておけばいいさ」と考えてきた。だが、結果が出ないのなら経営者は責任を取らなければならない。
「こんなヤツが社長をやっていたら社員がかわいそうじゃないか」とも思った。どんなに暗い時でも、厳しい時でもネアカに振る舞ってきたが、あの時の私はすっかり自信を失っていたのだろう。「やっぱりソニーの社長はおまえじゃダメなんだ」。心の中の自分がこう言うのだ。
正直、誰にどう留意されたのかも覚えていないが結局、自分自身で「もう少し踏ん張ってみよう」と考えを変えたのだと思う。
ソニーを取り巻く厳しい環境は変わらない。ただ、希望の芽がないわけではない。テレビは悲願の黒字化を果たし、スマホやクルマなどの「目」に使うイメージセンサーという半導体は飛ぶように売れた。ただし、強みを補うための資金が限られる。そこで決めたのがソニーにとって26年ぶりとなる公募増資だ。
公募増資3200億円に、1200億円分の新株予約権付社債(転換社債)を加えて4400億円の調達に乗り出した。無配に続き希薄化によって株主にはご迷惑をかけることになる。15年6月に機関決定すると、3チームに分かれて世界中を飛び回る旅に出た。
9日間で世界10都市で合計132回の投資家ミーティングを開く。どこに行っても腕組みにしかめっ面が待っていた。思えば、あの時ほどメンタルをすり減らした時期はなかった。
「なぜ公募増資に頼るんだ」。毎回、ありとあらゆるネガティブな質問を浴びる。資料を投げられることもあった。毎晩、ホテルに戻る頃には疲れ果てていた。部屋にミニバーがあればウイスキーのミニボトルをぐいっとあおって眠りについた。
だから、5倍の注文が入ったと聞いたときには、驚くと同時に全身の力が抜ける思いだった。IR(投資家向け広報)の担当者によると、半導体への投資という明確な目的が支持されたのだという。思えばこの頃がどん底。私のソニー再建はここから反撃のフェーズに入るのだった。(ソニー元社長)
【図・写真】内心では追い込まれていた
平井一夫(24) パソコン撤退 ノスタルジーとは決別 「異見」聞き大規模リストラ断行(私の履歴書)[2025/04/25 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1385文字 PDF有 書誌情報]
吉田憲一郎さんがソニー再建を目指す「チーム平井」に加わったのは2013年12月のことだ。肩書はエグゼクティブ・バイス・プレジデント(EVP)最高戦略責任者(CSO)兼デピュティ最高財務責任者(CFO代理)だ。なんとも長い。
CFO代理と言いつつ、リポートラインは当時のCFOではなく社長の私。すぐにCFOに昇格してもらうという意思を社内外に示すためだった。ただ、吉田さんの役割は財務のトップにとどまらず実質的に最高執行責任者(COO)を兼ねたものだった。
相棒となる吉田さんとは、いきなりシビアな局面を迎えた。14年2月に公表した構造改革では、パソコン「VAIO」の売却やテレビ事業の分社、5000人の追加削減に踏み切った。
社長就任直後だった2年前に続く大規模なリストラだ。私や他の経営陣に対して「先送りすることなく今決めるべきです」と強く主張したのが吉田さんだった。まさに私が求める「異見」である。
テレビについては今村昌志さんと高木一郎さんのコンビによる改革が軌道に乗り始めており、あまり心配することはない。一方、VAIOの売却は社内外で波紋を広げた。ソニーの歴史の中でエレクトロニクス分野の主力と呼べる事業から撤退するのは、実はこれが初めてだった。
今村・高木コンビが「ガオン(画と音)」を軸に差別化を打ち出していたのとは対照的に、パソコンではそれが難しいと判断した。
そもそもVAIOは「ビデオ・オーディオ・インテグレーテッド・オペレーション」の略称であり、まさに「ガオン」で違いを打ち出す商品だった。だが核となるCPUもOSも他社に握られている。もはやソニーの強みを発揮するのは難しいと考えた。
この時期に盛んに聞こえてきたのが、ソニーOBからの非難の声だ。ある方からは「ソニーのトップは技術者であるべきだ」と記された手紙が届いたが、そこに記されたご指摘は懐古主義にしか思えない。無視を決め込み、手紙を開封することもなくなった。
「あんなのどうでもいいよ」。投げやりに言い放つ私に面と向かって注意してくれたのが、井藤安博さんだ。「平井さん、そんな言い方をするものじゃないですよ」、と。
彼は私が米ゲーム子会社「SCEA」の社長を務めていた頃からの仲だ。ちょうど現地社員からの不満を毎日聞き「俺はセラピストか」と思っていた頃に、日本からの出張者ながら私の愚痴に付き合ってくれた男だ。
社長に就任した際に、「CEO室長は彼しかいない」と私からお願いした。その井藤さんにたしなめられて、ようやくOBの皆さんと直接対話する機会を設けることにした。「リーダーはEQ(心の知能指数)が高くあれ」が私の持論だと本連載でも書いてきたが、社長にビシッと注意するくらいだから井藤さんのEQの高さは計り知れない。
こうして本社の一室にソニーの最新の商品を並べて、皆さんの話をお聞きすることにした。
ただし、結論から言えばOBの話を聞いて新しい経営施策が生まれるほど甘いものではない。ソニーをつくってきた先人に敬意は持つが、ノスタルジーだけではソニーはよみがえらない。いつまでも「ウォークマンを生み出したソニー」の幻影を引きずっていては再建はおぼつかないし、世界と戦えない。これが私が出した答えだった。
(ソニー元社長)
【図・写真】2014年度の経営方針を発表する筆者(東京都港区)
平井一夫(23) 三顧の礼 ソネットへのTOB断行 吉田社長を迎え入れ 再建へ(私の履歴書)[2025/04/24 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1409文字 PDF有 書誌情報]
私がソニー社長に就任して4カ月後の2012年8月、子会社のソネットエンタテインメント(当時)へのTOB(株式公開買い付け)を決めた。商品やサービスのネットワーク化がソニーにとっての課題だったことは本稿でも何度か触れたが、ネットワークサービスを手掛けるソネットを100%取り込む必要があると考えていたからだ。
あえて言えばもうひとつ、この会社にはソニーの財産があると考えていた。ソネット社長の吉田憲一郎さんだ。
初めて会ったのは、まだ私がエグゼクティブ・バイス・プレジデント(EVP)だった頃だ。二人三脚でネットワーク関連の戦略を描いていた鈴木国正さん(後にインテル日本法人社長)から紹介されて飲みに行った記憶がある。「人当たりの良い穏やかな人」というのが第一印象だ。
会うたびに話はソニーの再建策へと広がっていった。吉田さんは課題をズバリと指摘するだけでなく、何をすべきかの具体策も持っていた。
「この人は子会社ではなくソニーで活躍してもらうべきじゃないか」。私がそう思ったのも当然だろう。実は当時ソニー会長兼社長CEO(最高経営責任者)だったハワード・ストリンガーも、何度も吉田さんを最高財務責任者(CFO)として招こうとしていたのだ。
吉田さんは首を縦に振らなかった。その理由は、私がソネットへのTOBを考え始めた頃に分かった。都内の中華料理店で吉田さんと話し合ったときのことだ。いつもは冷静沈着な吉田さんが強い口調でこう話した。「私は逃げも隠れもしません。でも、今のソニーにとってエレクトロニクスの再建が先決なはず。資金はそちらに使うべきです」
それでも私はTOBに踏み切った。当時のソネットの株価に7割強のプレミアムを上乗せしてカタをつけた。ソニーからの独立を志向していた吉田さんは当時のことを「失意の夏」と振り返っていると聞く。私に言わせれば、そこまでしてでもソネットと吉田さんを必要としたのだ。
年が明けて13年に入るとTOBは無事に完了し、私は本格的に吉田さんを口説き始めた。ソニーの経営再建を語り始めると、やはりこの人しかいないと確信したのだ。吉田さんにはこう伝えた。
「私はイエスマンなど求めていません」
さらに、吉田さんの右腕の十時裕樹さんも一緒にソニーに引き抜きたいとお願いした。十時さんはソニー銀行の立ち上げメンバーで、ソネットでは古い付き合いである吉田さんを経営企画や財務の担当として支えていた。この4月、吉田さんの後任としてソニーグループCEOとなったことからも分かる通り、吉田さんが全幅の信頼を置く人だ。
吉田さんにはCFO含みでソニーに復帰してもらった。十時さんも事業戦略など中枢を担うポジションに登用した。私としては三顧の礼を尽くしたつもりだ。
いずれも13年12月の人事だが、すでにソニー再建の青写真について何度も話し合っていた。翌14年2月にまとめる構造改革に、お二人の考えを反映させるためだ。
私は「異見を求む」を信念とする。吉田さんこそ「異見」を私にぶつけてくれるチーム平井のキーマンだ。吉田さんは海外販社の圧縮や不採算事業からの撤退は不可避であり、決断を先送りにすべきではないと主張した。当初はもう少し様子を見ようかと思っていた私も考えを改めた。こうして嵐の14年が始まった。
(ソニー元社長)
【図・写真】「チーム平井」の皆さんと(前列右から十時氏、吉田氏。後列中央が筆者)
平井一夫(22) 悲願のテレビ再建 降格を受け入れた先輩 「画」と「音」 磨いて差別化(私の履歴書)[2025/04/23 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1388文字 PDF有 書誌情報]
私にとって最初のターンアラウンド(再建)の仕事が、米ゲーム会社だったことは本稿でも触れた。当時はアンディ・ハウスとジャック・トレットンという相棒に助けられた。規模がケタ違いとなるソニーでも信頼できるチームの存在は不可欠だ。
ソニーにとって最大の懸案が赤字続きのテレビ事業の再建というのは、衆目の一致するところだ。この点、私には頼れるコンビがいた。今村昌志さんと高木一郎さんだ。二人とも私の先輩にあたり、私とは違ってソニーの本丸たるエレクトロニクスを知り尽くしていた。
デジタルカメラの改革で実績を残したお二人に、私はテレビ再建という重責をお願いした。私はエグゼクティブ・バイス・プレジデント(EVP)時代からお二人の仕事を見てきたのだが、絶妙なコンビに見えた。今村さんが大将格なら、高木さんはその下でどんどんドライブするタイプ。それでいて自分の仕事を常に「コミットメント」と公言して退路を断つ。
実は当初、テレビは今村さんにお願いしたのだが、やはり百人力の高木さんが欠かせないと考えた。ただ、高木さんは当時、デジタルイメージング事業の本部長。テレビと同格の最重要事業と言える。
私はある時、高木さんにこうお願いした。
「申し訳ありませんが、今村さんの下でテレビの副本部長をやってください」
肩書でいえば降格となる。「私の目が黒いうちは絶対にあなたのキャリアをサポートし続けると約束しますので」と付け加えたが、普通なら憤慨するだろう。なんと言っても高木さんはデジタルイメージングで周囲が認める結果を残していたので。大先輩の高木さんが、私のお願いをどう受け取るだろうか……。
「分かりました。平井さんがそう言うならやりましょう」。私は普段、仕事では努めて感情的にならないように心がけているが、この言葉を聞いたとき、不覚にも涙をこらえることができなかった。
こうしてソニーが誇るツートップを配置したテレビ事業。二人は画作りと音というソニーが強みを持つ部分の力を高め、中韓勢との差別化を進める方針を掲げた。今村さんの言葉だと「ガオンを磨く」。ガオンとは「画」と「音」のことだ。
後述するが、私のソニー再建の中で最も厳しい時間となったのが2014年のことだ。文字通り心が痛む決断の連続。その中でソニーに希望の灯がともされた。お二人に託したテレビが、ついに悲願の黒字化に成功したのだ。実に11年ぶりのことだった。
私はよく「肩書で仕事をするな」と言う。周囲から降格と見られかねない人事を黙って受け入れ、プロとしての仕事を全うしてくれた高木さんこそ、その模範を示してくれた方だと思っている。
私がソニー社長に就任したのは51歳の時だから、「チーム平井」には多くの先輩に加わってもらった。その中でも、やはりこの人のことについてはじっくりと語りたい。私が何度もお願いしてソニーに招き、後継として社長のバトンを託した吉田憲一郎さんだ。私にとっては1年先輩にあたる。
吉田さんがたどったキャリアも異質と言っていいだろう。財務畑が長いのだが、出井伸之さんの時代に社長室長を務めると、子会社への出向を直訴されたという。それ以来、私と同様に「周辺」からソニーを見続けていた吉田さんの力を、私は必要とした。
(ソニー元社長)
【図・写真】テレビは現在もソニーの看板商品だ(2023年、札幌市内のソニーストア)
平井一夫(21) ソニーを変える 誰の目にも隠せぬ凋落 かじ取り託され「今しかない」(私の履歴書)[2025/04/22 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
2012年4月2日月曜日。ソニー社長としての初仕事となる入社式での祝辞を済ませると、私は北に向かった。行き先は宮城県多賀城市にある仙台テクノロジーセンターだ。社長になって初めての視察にここを選んだのは、まずは「ソニーのヒーロー」たちに会いたいと思ったからだ。
この時点で東日本大震災から1年余り。仙台港に近く津波の爪痕がまだ残る構内でこの1年、社員たちがどんな思いで復興に取り組んできたのかを聞かせてもらった。
とりわけ感動したのが商品梱包用の発泡スチロールを見たときのことだ。ある社員がこれをいかだのようにして津波にのみ込まれそうになっている人を救出したという。その話は聞いてはいたが、実物を前にすると「よくぞこれで……」と、その勇気を思うと言葉が出てこなかった。
終わったばかりの12年3月期の決算はこの時点でまだまとまっていないが結局、連結最終損益は4550億円もの巨額の赤字を計上した。赤字はもう4年連続となるが、傷口はどんどん広がり過去最大の金額に達していた。かつて世界を席巻したテレビの赤字はこの時点で8年連続だ。
ソニーはいったいこの坂道をどこまで転がり落ちていくのか――。誰の目にも凋落(ちょうらく)ぶりが隠せない状況に追い込まれていた。
社長としての私の仕事は明確だ。「ダメになったソニーを再建する」。このひと言につきる。そのためには大きな痛みを伴う構造改革が避けられない。もはや先送りする余裕はない。心は痛むが、リーダーとして覚悟を決めなければならない。
その前に「SONY」に誇りを持ち、未曽有の災害と戦った社員たちの姿を再確認できたことは、私にとって非常に意味が大きい。これは決してきれいごとではない。
この翌週、我々は3年間の中期経営計画を発表した。その記者会見で、私はこう宣言した。
「ソニーを変える。ソニーは変わる。ソニーが変わるのは今しかない」
ただ、報道陣からの質問は1万人の削減や不採算事業に集中した。「8年連続赤字のテレビを続ける意味があるのか」。こんな辛辣な質問が相次いだのだ。
ただでさえ不振に陥るソニーのかじ取りを託された私はキャリアのほとんどを音楽とゲームで歩んできた。ソニーの中核たるエレクトロニクスの経験はほぼ皆無だ。
「お手並み拝見」どころか、露骨に疑念の目を向けられるのをひしひしと感じる。はっきり言えば「どうせダメだろう」、と。この後、株価は下がり続け6月の株主総会の直前にはついに32年ぶりの安値にまで落ち込んだ。
散々な評判だが気にしても仕方がない。「言わせておけばいいさ」。心中ではこう思ったが、それさえも周囲に見せてはいけない。私を信じて再建を任せようと言ってくれた方々の期待に応えるためにも、結果で示すだけだ。
一方で前を向いて進んでいくための備えも忘れてはならない。その点で、どうもソニーには欠けているなと思うことがあった。この巨大企業は本当に同じ方向を向いているのか、ということだ。
当初は「ワン・ソニー」を掲げていたが、これでは何を軸にひとつになろうと言っているのかが伝わらない。新生ソニーを象徴する旗印はなにか――。巨艦ソニーが相手といえどもやることはこれまでと同じ。私は再び社員たちの声に耳を傾ける旅に出た。
(ソニー元社長)
【図・写真】経営方針を発表する筆者(2012年)
平井一夫(20) サイバー攻撃 反対押し切り謝罪会見 トップ交代打診され大役受ける(私の履歴書)[2025/04/20 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1382文字 PDF有 書誌情報]
本連載でもスマートフォン登場の衝撃について触れたが、様々なサービスや商品のネットワーク化はこの当時のソニーにとって喫緊の課題だった。そんなタイミングで起きたのが、ソニーを揺るがすサイバー攻撃だった。
2011年4月19日、米カリフォルニア州のサーバーが突然再起動したのを合図に、経験したことのない混乱が広がった。翌日にはシステムの確認作業のため「プレイステーション ネットワーク(PSN)」を停止したが、この時点では被害の規模が分からない。顧客のデータが大量に流出しているようだが、その全容さえつかめない。
ソニーがサイバー攻撃と情報流出の事実を認めたのは1週間後のことだ。初動の遅れは後々まで我々を苦しめたが、この時点でも社内で意見が割れた。
「今分かることだけでもすぐに説明して謝罪すべきだ」。私はこう主張したが、米国人の法務担当役員は真っ向から反対した。攻撃を受けている米国では情報開示の基準が州ごとに違い、状況を正確に把握できないままで対外説明すべきではないという。確かに一理あるが、危機対応としてそれでいいのか。
私は米ゲーム子会社時代の相棒、アンディ・ハウスがよく言っていたことを思い出した。「ネガティブな情報こそすぐに公開すべきだ。小出しではなく可能な範囲ですべて。分からないことは分からないと言う」。元広報マンのアンディらしい主張だった。
ソニーを揺るがす事態を前に一刻の猶予も許されない。私はニューヨークにいる会長兼社長CEO(最高経営責任者)のハワード・ストリンガーに電話した。ハワードもこの段階で謝罪会見はすべきでないとの考えだった。
「日本には日本の文化がある。自分たちも被害者なんて言っても伝わらない。まずは頭を下げて謝罪すべきだ。それをやらないと会社が終わることだってありえるんだ」
こうして私が東京で記者会見を開くことになった。「ユーザーの皆様には多大な不安とご迷惑をおかけしておりますこと、深くおわび申し上げます」。冒頭でこう言って頭を下げた。最初に謝罪すべきは、迷惑をかけたお客様に対してであるべきだと考えた。
この件では7700万件ものアカウント情報が流出した可能性があった。お客様の名前や住所、電子メールアドレスなどの個人情報が含まれる。まさに痛恨の極みだ。
東日本大震災に加えてこんな事態の収拾に追われた11年も終わり、年が明けた1月の半ば。この時期は毎年、ゴルフのソニーオープンが開かれるハワイのオアフ島に首脳陣が集まる。ツアー期間中のある時、ハワードが宿泊するホテルの部屋に呼び出された。ビデオ会議形式で開かれた取締役会で、テレビ事業の不振などについて散々批判を浴びたのだという。
私は副社長だが取締役ではないので会議の詳細は分からない。ハワードは「なぜそこまで言われなければ」と憤るのと同時に、疲れ切っているようにも見えた。
「いよいよカズにバトンを渡す時が来たようだ」
こんな言い方だったと思う。トップ交代を打診された私は返答を保留したが、すでに腹は固まっていた。自室に戻ると同行していた妻の理子に告げた。
「今までより家に帰るのが少なくならないようにはするから」。こうして私はソニー社長兼CEOの大役を引き受けることになった。(ソニー元社長)
【図・写真】記者会見で情報流出について謝罪する筆者(中)(2011年)
平井一夫(19) 四銃士 社長後継者候補の一人に 社内に「負け癖」も情熱は健在(私の履歴書)[2025/04/19 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1371文字 PDF有 書誌情報]
あれはその場の思いつきだったんじゃないかと、今でも思っている。
2009年2月、ソニーは経営体制の変更を公表した。社長の中鉢良治さんが副会長となり、会長兼最高経営責任者(CEO)のハワード・ストリンガーが社長も兼務する。CEO就任から4年でハワードに権限が集中するため、英フィナンシャル・タイムズ紙は「ストリンガーがソニーを掌握した」と報じた。
そんな世間の見方をそらすためだったのかもしれない。その日、ハワードは私を含めた4人に同席を求めた。「ソニーの四銃士」。ハワードが我々を紹介するために使った言葉が、いつの間にか一人歩きしていった。この4人の中にハワードの後継者がいるはずだと。ハワード自身がその後に「後継者は四銃士から選ぶ」と公言したのだから、がぜん注目が集まった。
ただ、私としてはまったく現実味のない話だった。4人の経歴を見比べれば当然だ。私だけエレクトロニクス事業の経験がなかった。「ま、どうせ俺は数合わせだろうな」。私だけでなくほとんどの関係者がこう思ったはずだ。
それに、ソニーは後継者レースなどと言っていられない事態に直面していた。大黒柱のはずのテレビは赤字から脱却できず、パソコンや携帯電話、デジタルカメラなど主力事業の多くが米アップルのiPhoneなどスマートフォンの侵攻を受けていた。
私も11年から副社長としてコンシューマー向け製品の全般を任されるようになり、事態の深刻さを痛感させられた。ソニーはすっかり負け癖がついている。そう感じざるを得ないシーンを何度も目撃するようになった。
例えば、ある日の社内プレゼン。社員が私たち役員の前で新商品のコンセプトを話し始めたが、なにが強みなのかが分からない。
「それじゃサムスンに勝てない。そもそもお客さんに刺さらないよね」
冷たい指摘が飛ぶと、取り繕うような説明が続いた。「仕事だから一応、やってます」。彼はそうは言わなかったが、そんな本音がありありと伝わってきた。音楽とゲームというソニーにとって「周辺」の部門からやってきた私の目に、それは「ダメになったソニー」を象徴するシーンと映った。もっとストレートに言えば「このままではソニーは潰れる」と思ったのだ。
ただし、こう感じることも多かった。
この中の誰一人として「これでいい」とは思っていないはずだ。ソニーを再び輝かせるための情熱は、確かに存在する。
どんな場面に遭遇してこう感じたのかは覚えていない。一度や二度ではないので。繰り返しになるが、私はソニーの「本丸」ではないところからやってきた。だからこそよく見えた。「SONY」に対するプライドが、誰の胸の中にも確かに存在するということが。
ソニーにはよみがえる力が隠されている。それをどう引き出すべきか。
ゲーム事業に限られたこれまでのターンアラウンド(再建)とは次元が違う。どう立ち向かうべきか。そんなことを考え続ける中で、思わぬ事件がソニーを襲った。
2011年4月19日午後4時15分。米カリフォルニア州にあるサーバーがなんの前触れもなく突然、再起動した。これまで経験したことがない規模のサイバーアタックが、静かに始まっていたのだ。
(ソニー元社長)
【図・写真】2009年、ソニーの新体制を発表するストリンガー会長兼CEO(右から3人目、同2人目が筆者)ら
平井一夫(18) モバイルの衝撃 スマートフォンとの戦い 輝き失い追い込まれるソニー(私の履歴書)[2025/04/18 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1426文字 書誌情報]
プレイステーション3の改革を中心としたゲーム事業のてこ入れに出口が見え始めたのが2009年のことだ。この年、私は49歳を迎える。人生の大台とも言える50歳を目前に、「さて、この先の人生をどう生きていこうか」と考えるようになった。
ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)の再建という仕事も一段落というところまで来たことだし、家族が暮らすサンフランシスコ郊外に戻ろうか。それならSCEからもソニーグループからも卒業して、米国で第二の人生を送るのも悪くはないだろう。それほど真剣に、というほどではないがこんなことをぼんやりと考えるようになっていた。
日本に帰ってきて2年余りになる。「ソニーを潰す気か」と言われた当時のことを考えれば、わずか2年ながらずいぶんと濃密な時間を過ごしたものだ。ただ、いざ危機モードからの脱却が見えてくると、なぜか私の心の中に燃えるものが薄れていくことが、自分でも分かった。
日本での一人暮らしに不満はない。帰国時に仮住まいと考えていた都心のマンションは快適で、そのまま居着いてしまった。休日になると頭をオフに切り替えて大好きな自転車をこぐ。車にロードバイクを乗せて、東京の荒川沿いや千葉の印旛沼あたりには何度も通ったものだ。1日の走行距離が100キロを超えると、なんとも形容しがたい達成感に浸ることができる。
私はもともとオンとオフをはっきりと分ける方だ。仕事は充実しているのだが、プレイステーション3が不振から脱出する道のりが見えてくると、ヒリヒリとする緊張感が徐々に失われていく。
そんな感覚に陥ろうとしていた頃のことだ。米国で生まれた小さなデバイスが、世界のテクノロジーマップを塗り替えようとしていた。米アップルのiPhoneだ。日本にも08年7月に上陸すると、瞬く間に普及していった。
あのシンプルで美しいデザインもさることながら、iPhoneはインターネットを手のひらに収め、アプリという巨大な経済圏を築こうとしていた。正直、「これは夢の商品だな。さすがスティーブ・ジョブズ」とうならされた。かつてソニーはアップルを買収することも検討したと聞くが、攻守が逆転したことを認めざるを得ない。
私は09年からソニー本体のエグゼクティブ・バイス・プレジデント(EVP)も兼務するようになっていた。音楽子会社からゲーム業界に移り四半世紀。思えばずっと「親会社だからといってなんだってんだ」と口にしていた私が、とうとうソニーの「本丸」に足を踏み入れたのだ。
ソニーの大黒柱であるエレクトロニクス事業に関わるのはこの時が初めてだった。プレイステーションを兼任しながらパソコンの「VAIO」やモバイル機器、そしてネットワークサービスを任された。本社の面々からすれば「お手並み拝見」だろう。確かに会議で飛び交う言葉も分からないことだらけだ。
これまで何度も経験してきた「異邦人」の扱い。だが、そんなことを気にしてはいられない。そこで見たのは、すっかり輝きを失っていたソニーがいよいよ追い込まれていく姿だったからだ。
デジタルカメラ、テレビ、ビデオカメラ、パソコン、そして私が関わってきたゲーム……。ソニーの主力事業はことごとく、日進月歩で進化するスマートフォンとの戦いを強いられていくのだった。
(ソニー元社長)
【図・写真】オンとオフは切り替える(2017年、東京スカパラダイスオーケストラと。中央が筆者)=高木 康行撮影
平井一夫(17) 1.8キロの執念 プレステ値下げ 危機脱す 久多良木さんに見た経営者の矜持(私の履歴書)[2025/04/17 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1411文字 PDF有 書誌情報]
出口が見えたと確信できたのは2009年9月のことだ。プレイステーション3を「家庭のスーパーコンピューター」から「ゲーム機」に戻そうと考えた我々は少しずつその中身を変えていった。
ゲーム機のパッケージから「PLAYSTATION」のロゴの材料に至るまで、それは実に細かいことの積み上げだった。そのひとつずつにひとかたならぬ思い入れがあるのだが、あまりに細かくなるので本稿では割愛する。
こうして世に送り出したプレイステーション3の改良版には、「CECH―2000」という型番がつけられた。ここではその重さに触れよう。この型番は約3.2キロ。それに対して3年前に発売したプレイステーション3の初期型は約5キロ。つまり、1.8キロほど軽くなっているのだ。
わずか1.8キロ――。そこに技術者や調達担当者などをはじめ、ソニーが誇る優秀な面々の執念が込められている。少なくとも、ずっと議論をともにしてきた私にはそう思えるのだ。私はよく会議で「まずは成功した状態をイメージしよう」と言ってきたが、それを実現させたメンバーたちの働きには頭が下がる。
価格で言えば2万9980円なので、当初の値付けより2万円も引き下げたことになる。もちろんゲームをプレーする人たちに、違いは感じさせないという自負がある。そこに至るまでに3年近くもの時間を要してしまい、お客様に迷惑をかけてしまったことは申し訳ないのだが。
ここでもやはりこの人について言及しなければなるまい。プレイステーション3で「家庭のスパコン」を掲げた久多良木健さんだ。いわずと知れたソニーの革命児でカリスマそのものといえる存在だ。私のここまでの「プレステ改革」は、そんな偉大な先輩の夢を否定するものだったと言われても仕方がない。
ただ、久多良木さんは「後は任せたから」と言った以上、私の方針に口を出すことはなかった。腹の底では「なにをやってるんだ」と思うこともあったかもしれない。なんと言っても、かつての勢いを失ったソニーにゲーム事業という新たな光明をもたらした大功労者だ。それくらい言っても誰も文句は言うまい。
ここに経営者としての矜持(きょうじ)を見たと思っている。実はこの時の経験もあって、私自身が後にソニー社長の仕事を吉田憲一郎さんに引き継ぐときに、こんなことを伝えた。
「平井路線を否定していただいてかまわない。私は一切、口出ししませんから」
経営者が決めたことが正しいなんて限らない。後に検証すれば間違いだったということも多いだろう。だが、決断することが経営者の仕事であり、そこに信念がなければ務まらない。間違いに気づけば修正すれば良いだけの話だ。決して美談にしようというわけではなく、久多良木さんから教わった当事者だからこそ言える教訓なのだ。
こうして10年3月に、プレイステーション3は売れば売るほど赤字が出るという状態を解消し、ついに黒字化のメドをつけた。改革に着手してから3年余りの月日が過ぎていた。どれだけ成功したかに見えるビジネスでも一度傾き始めると元の軌道に戻すのは簡単なことではない。それはこの後、ソニー社長として私が思い知ることになる。
こうして危機を脱した私は、あの感覚を思い出すことになった。自分がいなくても組織が自走してくれるオートパイロットの感覚だ。
(ソニー元社長)
【図・写真】プレイステーション3には久多良木さんのビジョンが詰め込まれていた
平井一夫(16) 理想との戦い グループ内から恨み節 リーダーの臨場感が危機感生む(私の履歴書)[2025/04/16 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
正直に言えば、私はプレイステーション3が抱える問題を最初から見抜けたわけではない。私が東京に本拠を移してからの数カ月で、みるみるうちに事態が悪化していくのが分かった。
最終的にまとまった数字は2300億円の赤字。ソニー本社のある首脳からは「おまえたちはソニーを潰す気か」と問い詰められた。この人だけではない。
「船を沈めようとしているのか」
「よくも10年分の黒字を吹き飛ばしてくれたな」
グループ内から恨み節が聞こえてくる。ソニーのエレクトロニクス部門がかつての輝きを失ったのが1990年代後半のことだ。「本業」の苦戦を横目に、我々ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)は飛ぶ鳥を落とす勢いを見せ始めた。なにせ若い組織だ。今やソニーを背負っているのは自分たちだという態度が鼻につくこともあっただろう。
本当に沈むわけにはいかない。やるべきは不調の元凶であるプレイステーション3のてこ入れだ。当初掲げた「家庭のスーパーコンピューター」というブランドイメージを撤回し、「あくまでゲーム機」と考えると4万9980円はやはり高額すぎた。これでも発売直前に緊急値下げしたのだが。
こうなるとサードパーティーと呼ばれる社外のゲーム開発会社は二の足を踏む。自力でのコンテンツ開発にたけた任天堂などと比べ、我々はあくまでサードパーティー頼みだ。初代プレイステーションと「2」ではすばらしいソフトを数多く作ってもらったが、「3」ではなかなか開発が進まなかった。
あれは9月に開催された「東京ゲームショウ2007」でのことだ。私がプレゼンのステージに上がり、ソフトの数々を紹介する動画を流すひとコマがあるのだが、それにしてもソフトが少なすぎるという問題に直面した。
普通に映像を流すと聴衆に「なんだ、これだけか」と受け止められかねない。さて、どうしたものか。苦肉の策として動画と一緒に流す音楽を急にノリノリの曲調に変えることにした。それだけで少しはごまかせるのではないかと考えてのことだ。
いずれにせよ、こんな応急処置では根本的な解決にはならない。「家庭のスパコンとしては安いが、ゲーム機なら高い」。こんな立ち位置を撤回して「ゲーム機」に徹するべきだ。そのためには「プレイステーションの父」である久多良木健さんがこのマシンに詰め込んだ理想をひとつずつ潰していくような作業が避けられない。私は自ら陣頭指揮をとって、これを実行した。実際の作業は細かいことの積み重ねだ。
そして最後には次世代型のプレイステーション4で、久多良木さんが「家庭のスパコン」の核と考えた独自開発の高性能半導体「セル」を廃し、米AMDからの調達に切り替えた。この過程で重要なのはSCEの命運がかかるコストを議論する会議には、経営トップである私ができる限り出席するということだ。
正直、会議で飛び交う技術論にはついていけない。それでもちゃんと事態の推移を見守るべきなのだ。私はよく「臨場感が危機感を生む」と表現する。経営者が一緒に汗をかくことで現場に危機感が伝わる。それだけでなくそこで決めたことの責任は私が取るということをメンバーに示すこともできる。リーダーの役割とはそういうものだ。
(ソニー元社長)
【図・写真】「東京ゲームショウ2007」で基調講演する筆者(千葉市の幕張メッセ)
NTTコミュニケーションズ社長 小島克重氏(下) 連携は強み、相乗効果を(私の課長時代)[2025/04/15 日本経済新聞 朝刊 14ページ 1325文字 PDF有 書誌情報]
■企画職に異動、会社の仕組みを知る
入社以来、法人営業に従事してきた私の転機は、事業戦略などを考える経営企画部の課長に異動したときです。それ以前は「仕事は現場にある」と社内の会議に参加せず、ひたすら客先を回る日々でした。昼間に会議をするなんてあり得ないと思っていました。
企画の人からすると、営業時代の私は何をしているか分からない存在だったでしょう。だからこそ評価もされなかったですし、手助けもしてもらえなかった。「何もしてくれない」と思っていた企画職への異動は戸惑いが大きかったです。
マーケティングや戦略立案の考え方を身に付けるべく、本を読むなど相当な時間を勉強に費やしました。学んで分かったのは、営業活動は単品では成り立たないということです。
営業職の時、当時の鈴木正誠社長を顧客企業の社長に勝手に引き合わせたことがありました。社長同士で話してもらえば商談はうまく進むと思い込み、上司の承認を得ることなくその場をセッティングしました。
会合自体はうまくいったのですが、その後、こっぴどく叱られました。トップの会合は戦略を練った上で、というのが組織の仕組みです。そのために承認フローがあります。基本的なことも理解せず、個人技に走っていた自分を恥ずかしく思います。
■営業の現場とスタッフをつなぐ存在に
長らく営業の現場を経験してきた私に対し、会社は現場と社内にいるスタッフをつなぐ役割を期待しているのだと感じました。企画職を経験して感じたことは、企画と営業が連携できれば、会社としてもっと強くなれるということです。
事業戦略を考えるスタッフは頭脳でありエンジンです。戦略は考えて終わりではなく、施策の実行まで責任を持つべきです。現場とスタッフの架け橋となれるよう、積極的に現場に顔を出し会社の方針を理解してもらえるよう努めました。
NTTから分社して数年がたち、ICT(情報通信技術)を活用して顧客企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)を支援する事業を伸ばすことが課題だった時期に、事業戦略を考える仕事ができたのは良い経験でした。
■仕事に線を引かず、答えのない答え探しを
24年6月に社長に就いてから、社員によく伝えることがあります。それは、仕事に線を引かずはみ出してほしい、ということです。NTTコミュニケーションズには、教科書に書いてあることの範囲内で100%の準備をして臨む優秀な方が多い印象です。
求められた仕事をこなすのは誰にでもできることです。ただ、そういった仕事は、ゆくゆくは人工知能(AI)に取って代わられるかもしれません。答えがない答えを探しに行く。社員にはこの感覚を忘れないでほしいと思います。
私のように個人技が過ぎるのも困りものですが。
あのころ
1999年、NTTグループは持ち株体制に移行し、長距離・国際通信事業を担う子会社としてNTTコミュニケーションズが誕生。同年、国際電話サービスの提供を始めた。00年には国際電信電話(KDD)など3社の合併によりKDDIが発足。通信業界の再編が進んだ。
【図・写真】自動車会社を担当していた時、社長表彰でプロジェクトメンバーとタイに行った(右から3人目が小島氏)
平井一夫(15) ソニーを潰す気か 突如ぐらついた稼ぎ頭 ゲーム機超えたビジョン伝わらず(私の履歴書)[2025/04/15 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1399文字 PDF有 書誌情報]
ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)の社長に就任し、東京での単身赴任生活が始まった。米国法人時代も東京のSCE本社は何度も訪問しているが改めて腰を据えてみると、いつの間にか巨大な組織になったものだと実感した。
私が米国でプレイステーションのお手伝いを始めた頃は、まだ社内ベンチャーという存在だったが、10年もたたないうちに社員数は約5000人に達していた。3年ほど前に移転した南青山の本社ビルには収容しきれず、主に周囲の3つのビルに分散していた。社員たちは社用の自転車で行き来していた。
すっかり大企業になったSCEにはどんな課題があるのか。私は米国時代と同様、社員たちの声に耳を傾けることから着手した。今回は一対一というわけにはいかない。そこでターゲットを課長から部長あたりの層に絞り、定期的に5~10人ほどでランチ会を開くことにした。
狙いの半分は米国時代と同じだ。「平井」を売り込むこと。ただし、自説を演説するなんてナンセンスだ。参加者たちが持ち場に戻り、周囲から「平井さんってどんな人でしたか」と聞かれたときに、「武勇伝ときれい事を聞かされたよ」なんて伝えられたら、その時点でアウトだ。誰も私の話なんて聞かなくなる。
まずはじっと話を聞くことに徹するのが私のやり方だ。とはいえ、社員たちからすれば新社長にいきなり本音なんて言えるわけがない。私の役割は参加者が発言しやすい空気をつくることだ。時にプライベートの話から始めたり、「あれ、以前にアメリカで会ったよね」と気軽に話しかけたり、とにかく英語で言うアイスブレークに徹するのだ。
こんな会を重ねていくと、「どうやら平井さんとのランチ会では思っていることを口にしてもいいみたいだ」という見方が社内に広がっていく。会社が抱える問題が見えてくるのはそれからだ。
実際に見えてきたのは、私が社長に就任する直前に発売されたプレイステーション3が多くの課題を抱えているということだった。ある社員が私にこう聞いてきた。「平井さんはPS3とはなんだと思いますか」。根源的な質問だ。すぐに理解した。私は試されているのだと。ただ、私はすでに確信していた。
「PS3はゲーム機。それ以外のなにものでもない」
実はこれは、私の前任である久多良木健さんが描いた壮大な構想を全否定する言葉だった。質問者にもすぐに伝わったはずだ。
久多良木さんは間違いなくカリスマでありビジョナリーであり、スーパーエンジニアだ。そのビジョンを詰め込んだのがプレイステーション3だった。久多良木さんに言わせれば、それはゲーム機の枠を超えた「家庭のスーパーコンピューター」だ。
社員たちの意見を聞けば、お客様にはまったくそんなビジョンが伝わっていない。確かに画質などは見違えるように改善されたが、それにしても値段が跳ね上がったというインパクトが大きかった。
プレイステーションの変調は端的に数字に表れた。社長就任の直後にまとまった07年3月期の決算で、SCEは2300億円もの赤字を計上した。ソニーが誇る新たな稼ぎ頭が突如としてぐらついたのだ。すると私のもとにソニー首脳から電話が入った。怒りに満ちた声でこう切り出された。
「おまえたちはソニーを潰す気か」
(ソニー元社長)
【図・写真】体験コーナーでプレイステーション3を楽しむ人たち(2006年、東京・銀座のソニービル)
平井一夫(14) オートパイロット 「平時に向かない経営者」 プレステ3危機、12年ぶり東京に(私の履歴書)[2025/04/14 日本経済新聞 朝刊 32ページ 1376文字 PDF有 書誌情報]
2000年にプレイステーション2が発売され、初代機を大きく上回る大ヒットとなると、私が預かる米国法人「SCEA」の経営も順調に回り始めた。あれだけ人心が荒廃していたのがのようだ。この頃になって私はこんな風に思うようになっていた。
表情に出さないようにしてきたが、社員に解雇を宣告する時にはこちらの心が削られる。だが、もはやそんな必要もない。退路を断って古巣の音楽子会社を辞め、SCEAに入社し直した。今ではそれがリスクとも感じない。
そう。すべてがうまく回り始めたのだ。
経営者としてはこの上ない状態のはずだ。「ターンアラウンド(再建)」という言葉はもう、この組織には必要ない。例えるなら飛行機のオートパイロット操縦。私が何もしなくても周囲のメンバーが自走してくれる。まさに私自身が望んで、仲間たちと作り上げてきた状況のはずだ。
なのに、なにかしっくりこない。心の中に燃えるものがなくなってしまったかのようだ。「ああ、俺は平時には向かない経営者なのかもしれないな」。こんな風に思うようになった頃のことだ。05年からソニー会長兼最高経営責任者(CEO)を務めていたハワード・ストリンガーから電話がかかってきた。
「東京に来てケンを助けてもらえないか」
ケンとはソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)社長の久多良木健さんのこと。久多良木さんに代わりSCE社長に私を起用したいという話だった。
サンフランシスコ郊外の街で暮らす家族に告げると、米国で育ち思春期を迎えていた娘から「What’s your point?」とひと言。「で、なんなの?」といった感じだ。結局、単身赴任で東京に戻ることになったので、ハワードには「1カ月に1週間は米国で過ごしたい」との要望を伝えた。すんなり認めてくれたのだが、それどころではない状況が続くことになるとは、この時には思いもしなかった。
こうして06年末に、私はひとり東京に戻ってきた。音楽でニューヨーク転勤を告げられてから12年になる。そこで私が見たのは、かつての輝きを失ったソニーだった。
03年にはソニーの業績悪化が東証全体に波及する「ソニー・ショック」が発生した。その後も業績は鳴かず飛ばず。正直なところソニー・ショックの頃はプレイステーション2の快進撃のおかげで、ソニー全体の不振などどこ吹く風だった。
ところが、我々SCEにも危機が迫っていた。原因は私が帰国する直前に発売したプレイステーション3だった。
このマシンには久多良木さんの壮大なビジョンが詰め込まれていた。キャッチフレーズは「家庭のスーパーコンピューター」。それが消費者には響かない。独自開発の高性能半導体「セル」も久多良木さんの肝煎りだったが、とてもこのチップの実力を示すに足る用途が、ゲーム機にあるとは思えなかった。
当初は久多良木さんがSCEの会長兼グループCEO、私が社長兼グループ最高執行責任者(COO)で役割分担することになったのだが、4カ月ほどで久多良木さんの退任が決まった。
この時、私は46歳。危機の足音が迫り来る中、誰もがカリスマと認める久多良木さんの夢を捨てたと言われても仕方のない決断を下した。
(ソニー元社長)
【図・写真】久多良木さん(中央)からは多くを学んだ(1996年、米シリコンバレーで。右端が筆者)
平井一夫(13) 「仮免許」を返上 米法人に骨うずめる覚悟 ゲーム事業、ソニーの中核に(私の履歴書)[2025/04/13 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1390文字 PDF有 書誌情報]
1994年に日本で発売したプレイステーションは瞬く間に大ヒット商品となった。私も含めて社内でも懐疑的な見方が強かったゲーム事業は、あれよあれよという間にソニーの中核事業と呼べるまでに成長した。
象徴的なのが99年3月期の業績だった。エレクトロニクス部門の営業利益が前期比59%減の1311億円に落ち込む一方で、ゲームは1365億円の営業利益を出した。
当時のソニーは誰が見てもエレクトロニクスの会社だが、生まれたばかりのゲームがあっさりと追い抜いてしまったのだ。当時の日本経済新聞は「『ゲームのソニー』色濃く」との見出しで伝えたが、我々にとっては「色濃い」という程度ではない。自分たちがソニーを支えているのだという空気が流れ始めた。
もっとも、社内でもまだまだベンチャー的で危なっかしいとの見方があったのだろう。ソニー社長の出井伸之さんが「ゲームもエレクトロニクス部門」と話したという。それを伝え聞いた私は思わず「なにを言ってるんだ。ゲームはゲーム。プレイステーションはプレイステーションだ」と反発したものだ。
ところで私はこの時点でまだソニー・ミュージックエンタテインメント(旧CBS・ソニー)に籍を置いたままだった。ゲームの米国法人「SCEA」には出向しているという建前だった。
いつまでもそういうわけにはいくまいと思っていたある日、東京の久多良木健さんから電話がかかってきた。
「キミ、けしからんなぁ」
なんでもこの当時、親会社のソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)は海外駐在を認めていないのに、ミュージックからの出向者である私を駐在員として認めることはできないという。久多良木さんは「大賀さんがそう言ってるから」ともいう。大賀典雄さんは当時のソニー会長だ。音楽子会社の一駐在員の勤務体系など知るはずもない。あれは久多良木さんのブラフだったはずだ。
こんな指摘もあって、私は正式にソニー・ミュージックを退職し、SCEAに入社し直した。ちなみにSCEではない。あくまで米国の子会社に雇われた形だ。この点にはこだわりがあった。
社内では「カズは東京から来た出向者だから失敗しても帰る場所がある」と見る者もいただろう。ここは久多良木さんのブラフに便乗して、SCEAに骨をうずめる覚悟を示そうと考えた。私がSCEAに入社し直したからといって、わざわざお披露目するわけではない。だが、確かに社員たちが私を見る目が変わっていった。
これに合わせて私は99年にSCEA社長に就任した。思えば私をここに引きずり込んだ丸山茂雄さんに「仮免許ってことで」と言ってEVP(エグゼクティブ・バイス・プレジデント)兼最高執行責任者(COO)になってから約3年。やることは変わらないが晴れて免許を許された気がした。
翌年発売したプレイステーション2は初代機の販売を上回り快進撃を見せる。最終的には1億6000万台以上に達した。
この間、ソニー本体はエレキの不振から深刻な業績悪化に直面する。私としては半ばひとごとだ。ミュージック時代から「ソニーなにするものぞ」という哲学をすり込まれていたからだろう。だが、おごれる者は久しからず。我がプレイステーションにも危機の足音が迫っていた。(ソニー元社長)
【図・写真】プレイステーション2は記録的な売れ行きとなった
(2000年、東京・秋葉原)
平井一夫(12) 「子供バンド」 決めたこと曲げずに通す 次第に尊重され米国事業軌道に(私の履歴書)[2025/04/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1416文字 PDF有 書誌情報]
音楽会社に入ったつもりが、私はどっぷりとゲームの世界に浸ることになった。ただ、正直なところ以前は「なぜソニーがゲームなんてやるのか」と切り捨てていた。
私の考えを変えたのは、プレイステーションで初めて「リッジレーサー」に触れた時に受けた衝撃だ。「こんなことが家でできちゃうのか」。流れるような映像がつくりだす臨場感に言葉を失った。
そしてもうひとつ。米国でプレイステーションを発売した1995年9月9日。私が気になったのは、全米デビューを果たした久保田利伸さんがその4日前にリリースしたアルバムの売れ行きだった。
サンフランシスコのタワーレコードに駆けつけると、ポスターとともにCDが棚に並んでいた。ホッと一息だ。「そういえば近くにゲーム店もあったな」。そちらにも足を運んでみた。そこで見たのはプレイステーションを買い求める長蛇の列だった。
両者への米国人の関心の差は明らかだった。日本発の産業としてゲームが持つポテンシャルの大きさを見せつけられた気がした。
こうして米国でも順調なスタートを切ったプレイステーションだが、司令塔の現地法人「SCEA」は空中分解寸前だった。マーケティング戦略を見ても、ロクに東京と擦り合わせることもなくロゴを勝手に変えたり、「ポリゴンマン」なるキャラを作ったりと方向性を見失っていた。
それをどう立て直すべきか。相棒のアンディ・ハウスとは「まずはまともな会社にしないとね」と語り合ったものだ。二人で話す時は英語が多いが、たまに日本語も混じる。そしてもう一人、頼もしい存在だったのが販売担当のジャック・トレットンだ。
全米の売り場に精通するジャックに言わせれば、米国では日本と比べて限られたスペースをあてがわれる。そこでユーザーに何を訴求すべきか。3人が一致したのが「ソフトウエア・ファースト」だった。そのためにはふたつのことを徹底する必要がある。
ひとつは「量より質」だ。日本ではバグが発生しない限り、ゲーム開発会社のソフトにノーと言うことはほぼない。だが、米国ではそうはいかない。限られた店頭のスペースにハズレのゲームを置く余裕はない。たとえ東京がOKした作品でも、SCEAの独自判断で米国では取り扱いを却下することが度々だった。
そうなると東京本社経由でゲーム会社からクレームが入る。そこは私の仕事だ。皆で決めたことを曲げては2人からの信頼を失う。リーダーは決めたことに責任を持たなければならない。
たとえゲーム事業のトップである久多良木健さんから文句を言われても「ダメなものはダメです」で通した。もっとも、久多良木さんは自分の足で米国の売り場を見て歩き、日本との違いをよく理解していた。当初はよく「おまえたちは“子供バンド”だからな」と言われたものだが、次第に我々のやり方を尊重してくれるようになった。
もう一つが「クリエーター・ファースト」の大方針だ。ゲームの質を高める上で最も重要なのは、ソフトを作ってくれるクリエーターが活躍しやすい環境だ。どうすれば我々は最高の環境を提供できるかを考え、会社を挙げてサポートする体制を整えた。
こうして米国事業も軌道に乗り、プレイステーションは米国でも不動の人気を得た。だがこの後、我々は天国から地獄にたたき落とされる。(ソニー元社長)
【図・写真】久多良木さん(右)は「量より質」の戦略に理解を示してくれた(2013年、写真中央はアンディ・ハウスさん)
平井一夫(11) まるでセラピスト 再建へ非情な決断も必要 「量より質」反転攻勢シナリオ描く(私の履歴書)[2025/04/11 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1361文字 PDF有 書誌情報]
丸山茂雄さんの鶴の一声でソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)の米国拠点「SCEA」の実質トップとなった私は、社員ひとりずつと話し合うことから再建に着手した。
妙な派閥争いが横行し、社員がバラバラの方向を向いている。組織の病根を洗い直す必要があると考えたのだが、狙いはそれだけではない。
私はミュージックに籍を置き、少し前まではお手伝いで丸山さんの通訳をしていた人間だ。一対一で話し込むことで、まずは「カズ」がどんな考えの人間かを理解してもらおうと考えたのだ。
すると次々と出てくる。
「プレイステーションは素晴らしい商品だが、この会社は最低。みんな言うことがバラバラなんだ」
「なぜ給料が高い幹部連中は仕事の邪魔ばかりするのか。なぜ経営陣はそれを見て見ぬふりをするのか」
こんな不満はまだ良い方だ。会社への建設的な意見と捉えることができるからだ。次第に組織の闇を物語る言葉が漏れてくる。
「あいつは信用できない。俺をバイス・プレジデントにしてくれたらカズのために働くからクビにしてくれ」
平気で仲間を売るような連中がいるのだ。それも一人や二人ではない。もちろん思い詰めたあまりの勇気ある告発もあった。心情を語るうちに号泣し始める者も。私はそっとティッシュを差し出しながら、内心では「これじゃ経営者というよりセラピストみたいだな……」と、途方に暮れる思いがしたものだ。
そして考えた。この組織を立て直すためには非情な決断も必要だ。リーダーならそこから逃げてはならない、と。
数百人いたSCEA社員の中には、明らかに違う方向を向いている者や、会社の利益にならない動きをする者がいる。まずはそういう人たちに「NO」を突きつけることだ。退職の通告も含めて、これはリーダーが自らやらないといけない。嫌な仕事だが、それを部下に押しつけて逃げていると思われては組織がまとまらない。
次にビジョンを共有することだ。詳細は次回に譲るが、日本と比べて売り場を確保するのが難しい米国ではゲームの量より質を徹底する戦略に出た。それを実現するためにもクリエーターに寄り添う方針を掲げたのだった。
まずは社員の声に耳を傾け、ビジョンを示して組織の力を集約するやり方は、後にSCE社長となった時も、ソニー社長となった時も同じ。そう考えれば、ソニー全体から見ればちっぽけな組織に過ぎないSCEAでの経験が、私にとっての財産となった。
ただし、孤軍奮闘だったわけではない。私には背中を預けられる相棒がいた。マーケティング担当として東京から送られてきたアンディ・ハウスだ。初めて会ったのは1995年9月にニューヨークで開いた米国でのプレイステーション発売イベントだった。
当時はSCEの広報担当だったアンディとは、何語で話したのか覚えていない。というのも、彼は驚くほど日本語が上手だからだ。
ウェールズ出身で英国の名門オックスフォード大学を出たアンディは世界中を旅して回ったそうだが、日本政府による国際交流プログラムに応募して仙台で英語を教えたことがある。この時に日本語を学んだという。
社員たちが帰宅した後の静かなオフィスで、私とアンディは反転攻勢のシナリオを描き始めた。
(ソニー元社長)
【図・写真】アンディ・ハウスさん(右)と話す筆者
平井一夫(10) 「仮免許」のCOO 米国拠点 唐突に任され 丸山茂雄さんが指名、立て直しへ(私の履歴書)[2025/04/10 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
「部屋のブラインドを下ろしても誰かに見張られているような気がする」
ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)の米国拠点「SCEA」の社長についた米国人幹部はこんなことを言うようになった。例え話ではなく、本気で恐れていた。ついに部屋のガラスを取り外して中が見えないようにしてしまったのだ。
機能不全に陥っていたSCEAの立て直しのためにエレクトロニクス部門から送り込まれたのだが、いつも誰かの視線におびえるようになってしまった。ノイローゼのような状態だった。
SCEAは社内で派閥が分かれ、疑心暗鬼が現場を覆っていた。彼の様子について、私も東京にこう報告した。「どうやらダメみたいです」
ここで動いたのが丸山茂雄さんだった。SCEAの面々を集めてこう宣言した。
「俺はこれから毎週、東京から来る。言っておくけど、もし俺が倒れても次は久多良木が来るからな」
丸山さんは本当に毎週やってきた。月曜にソニー・ミュージックエンタテインメント(旧CBS・ソニー)の役員会に出ると火曜は東京のSCEに。水曜に飛行機に乗り、時差の関係でその日のうちにサンフランシスコに到着する。木曜と金曜はSCEAの仕事をこなし週末に東京へと帰っていく。このルーティンを本当に毎週繰り返したのだ。
こんな姿を見せられると、私も「お手伝い」などと悠長なことは言っていられない。丸山さんが到着するとその足で根城のようにしていたハイアットリージェンシーでパスタを食べながら打ち合わせ。SCEAに乗り込むと現地の社員との会議に臨む。
入念に打ち合わせているため、丸山さんが少し話すと通訳の私が英語でしゃべり始めて止まらない。現地の米国人の中には「日本語って効率的な言語なんだな」と思う者もいたそうだ。毎晩同じ日本料理店で乾杯する時だけが、ほっと一息つける時間だった。
だが、いつまでも無理は利かないものだ。半年ほどが過ぎると、丸山さんが唐突にこう告げてきた。「俺は疲れちゃった。おまえが社長をやってくれ」。なんとSCEAの経営を私に託すという。
ただ、私はソニー・ミュージックの社員だ。それもアシスタントをひとり抱えるだけ。少し前に東京にいた頃は係長でしかなくまともなマネジメントの経験はない。この時、私は35歳。「いくら丸山さんのご指名でも」と尻込みすると、「そもそもソニー・ミュージックは若いヤツらにどんどん仕事を任せる会社じゃねぇか。おまえもやってみろよ」と返された。もはや引くに引けない。
「じゃ、仮免許ってことで……」。こうして私はミュージックに籍を残しながらゲーム子会社SCEAのEVP(エグゼクティブ・バイス・プレジデント)兼最高執行責任者(COO)となった。ただし、社長は不在。実質的にこの空中分解寸前の組織のトップとなったのだ。
妻にもお願いして一家で西海岸に。自宅はサンフランシスコ湾の近くで、SCEAから車で5分ほどの距離にあるフォスターシティで探した。
こうして私は音楽からゲームへと戦う場所を変えた。思えば、この時に初めてリーダーとなり、初めてターンアラウンド(再建)に挑むことになった。タフな仕事だったが、私は決して一人ではなかった。幸運なことに信頼できる相棒に恵まれたのだ。
(ソニー元社長)
【図・写真】音楽からゲームへと大きくキャリアが変わった
池上彰の大岡山通信若者たちへ(371)新社会人へ 最初から順風満帆はない[2025/04/09 日本経済新聞 朝刊 27ページ 1497文字 PDF有 書誌情報]
新年度が始まりました。新社会人や新入生の中には、「これから新聞を読んでみよう」と決意した人もいることでしょう。社会人になると、会社など組織の上司や取引先の人たちは、新聞を読んで最新の情報を把握しています。出社した途端、上司から「あの記事をどう思う?」などと問われることが出てきます。取引先を訪ねたら、「業界のことがニュースになっていたね」などと話しかけられることが出てきます。
そんなとき、「すみません、読んでいません」などと情けない返事しかできないようでは社会人失格です。
というわけで、極めて実利的な意味でも新聞は読んでおいた方がいいのですが、仕事のためにだけ新聞を読むというのでは、ちょっと寂しいですね。新聞には思わぬ情報も載っているからです。
私が愛読しているのは本紙コラム「私の履歴書」です。不思議なもので、若い頃は関心が持てなかったコラムなのですが、自分が高齢になってきたら、俄然(がぜん)興味を持つようになったのです。
功成り名を遂げたような人たちが、どのような体験を経て現在に至ったのかを知ると、多くの人が若い頃に挫折したり、大変辛(つら)い思いをしてきたりしたことがわかります。最初から順風満帆などという人生の人はいないのです。これが共感を呼ぶのですね。
いまになってみると、もっと若い頃から愛読しておけば、辛い日々の支えになったのではないかと思うのです。
そこで、「就職活動のためには日経新聞を読んでおかなければ」などと義務感で読み始めた新入生諸君にも、おすすめします。実にさまざまな業界の人が登場しますから、業界研究にもなるのです。
あるいは、若い頃に不本意な異動を経験したことが、あとになって貴重な財産になっている人の体験談には励まされることでしょう。あなたも、そんな人生を歩むことになるかもしれませんから。
組織の中に入って働くことは、新社会人だけでなく学生諸君にとって不安でしょう。でも、組織の中で経験を積んできた人たちの体験談を知ると、「組織論」を学ぶ機会にもなります。そこから論文を書くアイデアが得られるかもしれません。
さらに文章の書き方を学ぶうえでも役に立ちます。「私の履歴書」の連載冒頭では、その人の現在の姿が描かれます。そこから2回目以降は、幼少の頃にさかのぼって話が展開します。まずは現在の姿や仕事の様子を知ってもらってから過去に戻る。これが定番のスタイルです。
これは、あなたにとっての文章修行にもなりますね。「そもそも私は」などと書き出すのではなく、まずは現状を紹介する。それから、これまでの道のりを説明する。この構成が、わかりやすく面白い読み物になるのです。
コラムは連載ですから、話が盛り上がったところで終わりになると、「続きが読みたくなるような構成になっているのだな」ということがわかります。翌日も読んでもらえるようにするには、どうしたらいいか。そんな文章読本のお手本のような工夫の実例が展開されているのです。
初めて新聞を読むようになった人の中には、「隅から隅まで読まなければならない」と考えてしまう真面目な人もいることでしょう。でも、それでは負担が重すぎます。読むところが一つでもあればいいのです。それを積み重ねていくことで、あなたは新たな地平に立てるのです。
大岡山は池上教授の活動拠点である東京科学大学のキャンパス名に由来します。日経電子版に「大岡山通信」ほか「コラム」を掲載しています。
▼ビジネス→コラム→就活→「池上彰の大岡山通信」「チーム池上が行く!」「池上彰のSTEAM教育革新」
【図・写真】4月1日、全国で入社式が開かれた
平井一夫(9) 権力闘争の影 日米の拠点で深まる対立 プレイステーション海外販売控え(私の履歴書)[2025/04/09 日本経済新聞 朝刊 34ページ 1412文字 PDF有 書誌情報]
「たまには西海岸の太陽を浴びるのもいいか」
CBS・ソニーの大先輩である丸山茂雄さんから「プレイステーションの仕事を手伝ってほしい」と言われた時は、正直なところこの程度のお気楽な考えだった。
ゲーム事業会社のソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)の米国拠点「SCEA」はサンフランシスコ郊外にある。ニューヨークからは飛行機で6時間もかかるが、良い気分転換になるかなと思ったのだ。
ところで、音楽の人である丸山さんがなぜゲームなのか。少し説明が必要になる。
ソニー社内でゲーム事業を立ち上げ、「プレイステーションの父」として知られる久多良木健さん。当初は社内でも反対論が強く、丸山さんが自ら立ち上げた音楽会社にかくまっていたことがある。
丸山さんはよく「クタちゃんはアーティストだからさぁ」と言っていたが、音楽業界に身を置く私には実にしっくりときた。天賦の才を輝かせる一方で、とにかくクセの強いロックミュージシャンをプロデュースしているような感覚だったのだろう。
ゲーム参入にあたっては当初、任天堂と提携するはずが直前になって約束をほごにされた経緯がある。
単独で参入すべきかどうかを決める会議で、当時ソニー社長だった大賀典雄さんに対して久多良木さんが「本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生笑いものですよ」とけしかけたことは、ソニーの歴史を彩る名場面として語り継がれている。大賀さんが机をたたいて「DO IT」と叫び、参入を決断したことも。
久多良木さんを中心に開発されたプレイステーションは1994年12月に日本で発売され、大ヒットとなった。翌95年9月の米国販売を控えて、私もお手伝いにかり出されたのだ。
ところが、どうも様子がおかしい。日本からSCEの幹部陣がやって来ても、なぜかみんなSCEAのオフィスには足を踏み入れず、空港近くのホテル、ハイアットリージェンシーにとどまっているのだ。丸山さんや久多良木さんでさえ広大な吹き抜けとなっているアトリウムをオフィス代わりに使っていた。
最初は広々とした空間が心地よいからなのかと思っていたが、それにしてもなぜ目と鼻の先のSCEAに行かないのか。ここにプレイステーションの米国事業が抱える問題があり、それこそが私に声がかかった理由だった。
実はSCEAのリポートラインは東京のSCEではなく、ニューヨークにあるソニー本体の北米統括会社だった。ここから話が複雑になる。この北米会社のトップは大賀さんの懐刀と呼ばれたマイケル・シュルホフ氏だった。SCEA社長のスティーブ・レイス氏のボスも当然、シュルホフ氏になる。東京の指示など聞く耳をもたない。
ところがプレイステーションの米国販売直前の95年6月、ソニー本体の社長に大賀さんの後を受けて出井伸之さんが就任すると、出井さんとシュルホフ氏の対立が取り沙汰されるようになる。シュルホフ氏はソニーを去った。
こんな権力闘争が飛び火していたのがSCEAだった。指揮系統を立て直そうとレイス氏の後任として米国人幹部をSCEA社長に送り込んだのだが、なんとこの人がノイローゼになってしまった。
丸山さんからは「クリスマス商戦まで頼むな」と言われていたが、そう言っていられない状況となってきた。
(ソニー元社長)
【図・写真】2003年度の経営方針説明会での久多良木さん。SCE社長とソニー副社長を兼務していた
NTTコミュニケーションズ社長 小島克重氏(上) 「率先垂範」で仲間けん引(私の課長時代)[2025/04/08 日本経済新聞 朝刊 14ページ 1369文字 PDF有 書誌情報]
■飛び込み営業、トラブル対応に四苦八苦
黎明(れいめい)期のインターネットにひかれてNTTに入社しました。最初は電話局に配属となり、1軒ずつインターホンを鳴らして電話機を売りました。仕事のギャップにがくぜんとしましたが、いずれは希望する仕事を担当できると黙々と取り組みました。
開発職やシンガポールでの研修生の経験を経て法人営業の部署に移り、課長代理となりました。当初の担当は取引があまりない自動車販売の企業です。とにかく足で稼ごうと日参し、中古車オークションの仕組みを提案しました。
新しい仕組みを導入する際にトラブルはつきものです。うまくいっていないときはチームもばらばらになりがちです。仲間のけんかを体を張って止めたこともあります。1人ではなくチームで営業することの重要性を認識しました。
■嫌いな法人営業で「運命共同体」に
ある商談中、顧客先の担当者が話を止めて、「10万円、20万円、30万円」と数え始めました。びっくりして次の言葉を待っていると「今の時間まで発言しなかった人は帰ってください」と同行者のうち3人が会議室から追い返されてしまいました。
顧客に付加価値を提案できない人はコストでしかない。外部からそう見られていると気がつきました。チームの運営にコスト意識を持つ。顧客企業の発展に貢献するために運命をともにするということを心がけるようになりました。
正直、法人営業は大嫌いでした。ですが、中古車オークションの仕組みが無事導入された際、顧客の役員の方から「小島君、逃げずに向き合ってくれてありがとう」と言われました。その瞬間、営業の神髄に触れたように思いました。
■1人課長時代に鍛えた「率先垂範」の精神
入社12年目で営業課長を拝命したとき、直属の部下はいませんでした。以前とは別の自動車会社の担当となりましたが、その企業はすでに他社とネットワークの長期契約を結んでいました。入り込む余地がないため、上司から人員を割けないと説明されました。
ネットワークが無理なら他の手を考えるしかありません。当時、はやり始めていた電子調達の仕組みに目をつけ、足しげく通って売り込みました。甲斐あって、なんとか採用してもらえることになりました。
うまくいくか否かはすべて自分次第でした。使っていた米国製のソフトウエアはバグが多く、自分で対応するしかありません。時差の関係もあり、ほとんど会社に住みこむような形で仕事をしていました。
途中で投げ出したくなることもありました。それでも気づけば1人、2人と仲間が増えていきました。サービスの主幹や隣の課の人たちが手伝ってくれるようになり、ワンチームになっていく感覚がありました。「率先垂範」。今も行動の指針にしています。
〈あのころ〉 1987年、NTTが国内初の携帯電話サービスの提供を始める。同年KDDI前身の日本移動通信(IDO)も設立、市場参入する競合各社との技術革新争いが加速した。91年発表の「mova(ムーバ)」は当時世界最小の携帯端末で、携帯電話普及の呼び水となった。
こじま・かつしげ 1989年(平元年)早大教育卒、NTT入社。法人営業などに従事。19年NTTコミュニケーションズ取締役、21年執行役員。23年常務執行役員。24年6月から現職。埼玉県出身。59歳
平井一夫(8) 久保田利伸さん 周囲を巻き込む力に驚く NYに転勤、音楽事業に没頭(私の履歴書)[2025/04/08 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1390文字 PDF有 書誌情報]
「平井はニューヨークに行かせないと会社を辞めそうだぞ」。私の上司にこんなことをふき込んだのが、「ロックの丸さん」こと丸山茂雄さんだった。お父さんが「丸山ワクチン」の開発者である以上に、音楽業界では名の知れた人だ。上司もすんなり丸山さんの助言を受け入れた。
あれは私をゲーム事業に引き込むための策略だったんじゃないか――。後にこう思うこともあったが、真相を聞いたことはない。いずれにせよ私は少年時代を過ごした街に戻ることになった。
私以上に当惑したのが妻の理子だった。「話が違うじゃない!」。開口一番、こう言われたのも無理はない。妻も帰国子女で米国、英国、カナダを転々としてきた。大学時代の同級生で入社したCBS・ソニーでは外国部で机を並べていた。私が足を広げていると「引き出しを開けないじゃない」と怒られたものだ。
特に意識する仲でもなかったはずが入社して4年ほどで交際するようになり、その1年後に結婚した。娘と息子にも恵まれた頃、時代はバブルの絶頂期を迎えていた。都内の物件は高すぎて手が出ない。思い切って栃木県に引っ越すことになった。一軒家を購入したのは、宇都宮駅から車で30分近くの場所にある宇都宮グリーンタウンという大きな新興住宅街だった。
自然に囲まれ、子育てにはこの上ない環境だ。休日になるとよく子供と近くの公園に出かけたものだ。ちょうど会社が新幹線通勤を認めたため通勤も快適だ。実はつい最近までこの家を持ち続けていたほど、お気に入りだった。
そこから再びニューヨークへ。JFK空港から少し高速道路を走ると、少年時代を過ごしたリフラックシティの茶色い団地群が見えてくる。「ここに戻ってきてしまった」と思わざるを得ないが、いつまでもそんなことは言っていられない。心機一転、マンハッタンでの仕事が始まった。
ここで出会ったのがシンガーソングライターの久保田利伸さんだ。日本で成功した久保田さんは、全米デビューを目指して拠点をニューヨークに移したばかりだった。
「絶対にここで成功をつかむ」という久保田さんの熱量に、私は圧倒された。スタジオにこもって曲を創りあげる時に伝わってくる久保田さんの迫力は、今も忘れられない。まだ米国に移り住んだばかりで英語も勉強中だったと思うが、久保田さんが現地のミュージシャンとの意思疎通で困る姿を見たことがない。
言葉の壁を越える一流同士の会話というものなのだろうか。あらためて音楽ってすごいなと思うとともに、周囲を巻き込む久保田さんの力には驚かされた。「リーダーはEQ(心の知能指数)が高くあれ」が私の持論だと前回も書いたが、久保田さんもまた極めてEQの高い人だった。
こうしてニューヨークでも音楽の仕事に没頭し始めた私に、日本から国際電話がかかってきた。声の主は私をニューヨークに送り込んだ張本人の丸山さんだった。
「ちょっとさ、プレステの仕事を手伝ってくんない?」
そんな軽い口調だったと思う。1994年12月に日本で発売したプレイステーションの米国展開に向けて、通訳などの手伝いをしてもらえないかとのことだった。
「え? プレステですか。まあ、いいですけど」。こう答えたのが人生最大の転換点だった。私は全く関心がなかったゲームの世界に引きずり込まれることになったのだ。
(ソニー元社長)
【図・写真】またニューヨークに戻ってきてしまった
平井一夫(7) ロックの丸さん 理想のリーダーに出会う 海外法務を勉強、キャリア磨く(私の履歴書)[2025/04/07 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
あれは欧州出張でロンドンからカンヌに移動した時のことだ。フランスでは英語を理解できても使ってくれない人が多い。私は妙なプライドが邪魔をして、多くの日本人が英語圏でやる「身ぶり手ぶり」ができない。すると、急に自分の価値がなくなったような気がした。
「このままではただの〝英語使い〟になってしまう」。そうならないためには、何か人に負けないものを身につける必要がある。外国部で海外とやりとりするうちにヒントが見えてきた。欧米の音楽業界は日本とはしきたりのようなものが少し違う。ちょっとした違いが思わぬトラブルの元となる。そうならないように存在するのが契約書だ。
契約書の文面は一見すると無味乾燥だが、読み込むうちに私はこう考えるようになった。「ここには先輩たちが苦労して交渉してきた結果がすべて記録されている」。そんな目で書類を読むと価値が変わってくる。私は契約書を読みあさるようになった。
よく考えると、当時のCBS・ソニーには海外法務の専門家がほとんどいない。それなら自分がエキスパートになってやろうと、海外法務の勉強に没頭するようになった。
そこで気づいた。専門性を磨くことはその分野に仕事を閉ざすように見えて、むしろ逆なのだと。私の場合は音楽から出版、さらにゲームへと仕事の幅が広がっていった。
ちなみにゲームは任天堂とのライセンス契約だったのだが、当時の私は「なんでうちがゲームなんかやるんだ」という考えの持ち主。「こんなのカネの無駄だ」と悪態をついたものだ。後にプレイステーションでゲームビジネスにどっぷりとつかることになるとは、夢にも思わなかった。
こうして海外法務を軸にキャリアを描き始めた私の前に、CBS・ソニーが誇る名物オヤジが現れた。丸山茂雄さんだ。1968年の会社発足時からのメンバーで、ソニーにとって未知の領域だった音楽事業を切り開いてきたパイオニアだ。ロックに特化したエピック・ソニーを立ち上げたことで「ロックの丸さん」として知られていた。
後に「アンチ・ソニー」をもじった「アンティノス(Antinos、後ろ4文字は逆読みでソニーのこと)」を設立する筋金入りの反逆児だ。それでいて私のような若手にさえ「ごめん。俺、よく知らないから教えてもらえないかな」と声をかけてくれる。
いつも白のポロシャツとジーンズ。軽やかな空気を漂わせて、周囲との壁を一瞬で取り払う。相手が偉い人でも、私のようなペーペーでも。
私は後に「リーダーはEQ(心の知能指数)が高くあれ」と自らに言い聞かせるようになるのだが、丸山さんがモデルだった。そして、丸山さんとの出会いが私の人生を大きく変えることになる。
この時、丸山さんはソニーのエンジニアだった久多良木健さんをかくまっていた。久多良木さんが構想するゲーム参入計画を社内の「敵」から守るためだが、そんなことを私は知るよしもない。
ちょうど入社から10年を迎えた1994年初め、私はニューヨークへの転勤を告げられた。「日本人として日本で生きていく」と決めていた私は「冗談じゃない」と思ったが、どうしようもない。実はこの人事にも丸山さんが関わっていた。そしてここから私の人生は、想像もしなかった方向へと急速に動き始めるのだった。
(ソニー元社長)
【図・写真】丸山茂雄さんはリーダーのお手本のような人だった
平井一夫(6) まるで伝書バト 文書ボロボロ 失敗の連続 来日アーティスト相手に緊張(私の履歴書)[2025/04/06 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1358文字 PDF有 書誌情報]
1984年に入社したCBS・ソニーで、私が配属されたのは外国部という部署だった。その名の通り外国とのやりとりが仕事となる。
私が担当したのは、海外の契約アーティストが来日した際のプロモーション活動だった。雑誌の取材を設定したりテレビやラジオへの出演を交渉したり。著名なアーティストと行動を共にすると言えば華やかなイメージがあるが、普段はテレックスやファクスの作成など地味な仕事が多い。米CBSとの間で来日するアーティストの予定などを調整するのだ。
学生時代に国際法を学び翻訳のアルバイトをしていたこともあり、どうってことはないだろうと思っていたが、甘かった。
タイプライターで文案を作ると先輩の土屋佐知子さんのチェックが入る。これがもうボロボロで、ひどい時には文頭の「Hello」と文末の「Best Regards」しか残らない。テレックスは1文字あたりの単価が決まっているので、なるべく簡潔に必要なことを正しく伝える必要があるのだが、私の書く文章は土屋さんから見ればスキだらけだった。
文書を持って先輩たちの間を行ったり来たり。まるで伝書バトだ。見かねた隣の課の先輩から「バカヤロウ!」と怒鳴られることもあった。そこでようやくハッとした。自分の頭で腑(ふ)に落ちるまで考えていないからこういうことになるんだ、と。若い頃はこんな小さな失敗の連続だった。
海外の大物アーティストが来日する際は緊張の連続だ。アーティストには気分屋が多いのだが、不手際があったと伝われば今後の契約にも影響しかねない。
あれは人気絶頂のTOTOが来日した時のことだ。ある現場でヘアスタイルとメイクの手配ができていないことが分かった。
こういう時に焦った姿を見せてはいけない。私も含めて全員が何食わぬ顔。その間に土屋さんが近所の美容院に駆け込んで事情を説明し、助けてもらえないかと頼み込んだ。現場で時間稼ぎしていた私たちも、手はず通りだといったしぐさで美容師さんたちをお迎えしてことなきを得た。
私は通訳も兼務したのだが、あるアーティストがトークショーで軽いジョークを口にした。そのまま訳しても日本人にウケるとは思えない。とっさに機転を利かせた。
日本語で聴衆に「すいません。彼はジョークを言ったのですが、うまく訳せないのでとりあえず笑ってもらえないですか」とお願いしたら思いのほか大爆笑。そのアーティストが満面の笑みを浮かべるのを見てホッとしたものだ。
緊張の連続だけに無難に日程を終えた時の解放感はひとしおだ。初めての来日アテンドは「アイ・ライク・ショパン」のガゼボさんだったのだが、全日程を終えた後に六本木の高級店「瀬里奈」で乾杯した時は全身から力が抜けるような感覚だった。彼の曲は今でもよく聴いている。
こんな調子で好きな音楽に携わり充実した日々だったが、1年半ほどがたつ頃にふと思った。「本当にこのままでいいのか」。今のままでは、キャリアの核となるようなスキルが身につかない。このままではただの「英語使い」になってしまう。
そこで目をつけたのが海外法務だった。当時のCBS・ソニーには専門家がいない。この「ガラ空き」の分野で、誰にも負けないエキスパートになってやろうと考えた。(ソニー元社長)
【図・写真】来日したガゼボさん(右)と
平井一夫(5) 父の予言 「ソフトに無限の可能性」 音楽会社CBS・ソニーに就職(私の履歴書)[2025/04/05 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1384文字 PDF有 書誌情報]
「ちょっとそこに座れ」
東京・下井草の実家で父に促されて机に座るとビールがつがれた。父は「何を悩んでいるんだ」という。
もしかしてこれって、ドラマとかでよく見る親子で腹を割って話そうというやつか――。父はあまりそういうことをしない人だったので、やや驚きながら就職先を決めかねていることを打ち明けた。
内定を得た4社の中から2社に絞った。日産自動車とCBS・ソニーだった。
どちらも趣味の延長なのだが、その基準だけで選ぶなら圧倒的に日産だ。私は今でも根っからのクルマ好きだ。学生時代に英語教室のアルバイトで稼いで買ったのが、中古のマツダ「RX―7」だ。ロータリーエンジン搭載の名車として、今でもマニアの間で絶大な人気を誇る。
一方のCBS・ソニーはその名の通り、米CBSとソニーが共同出資で設立した音楽会社で、現在のソニー・ミュージックエンタテインメントだ。1983年のこの時点で創業からすでに15年がたっているとはいえ、日産と比べれば歴史は浅い。
銀行員の父のことだから大企業の日産を推すと思いきや、逆だった。「そりゃ、CBS・ソニーだろ」。その理由として父が話したことを、今も鮮明に覚えている。
「いいか、自動車メーカーに行ったらおまえが課長になる頃にはアフリカでジープを売るしかなくなってるぞ」
自動車産業の方々には大変失礼な言い草だが、父子の会話ということで大目に見ていただきたい。そもそもジープは日産ではなく米クライスラーの商品だ。「クルマは一生で何十台も持たないだろ。それならいずれ市場は飽和する」というのが父の論拠だった。それよりCBS・ソニーを推す理由が明快だった。
「これからの時代、ソフトには無限の可能性があるぞ」
当時はまだインターネットもなくパソコンは一部のマニアのもの。それにコンピューターといえばハードに目が行くのが普通だっただろう。そんな時代に父は「ソフトウエアの時代」の到来を予見していたのだ。言うまでもなく音楽はソフトだからCBS・ソニーを選ぶべきだという。
父の眼力には恐れ入る。思えば、この時から約30年後にソニー社長となった私は「エレキのソニー」からの脱皮を進めたのだ。エンターテインメントつまりソフトを新たな柱に据えることになったのだから、父の助言にはなにか予言めいたものを感じる。
もっとも、私がCBS・ソニーに決めたのは、時代のパラダイムシフトという壮大な洞察だけが理由ではない。高校と大学の先輩であるジョン・カビラさんが勤めており、どんな会社なのか聞いたところ「すごく自由だし開放的。それにみんな音楽が大好きで楽しそうに仕事をしている人が多いよ」と言う。
実際に会社を訪問すると、男性はジーンズにポロシャツ、女性は華やかなドレスといった服装で、一目でジョンさんの言う通りの気風だと理解できた。こうして私はこのソニーの音楽子会社の門をたたくことになった。
桜の花が咲く頃、社長の松尾修吾さんから入社の訓示を受けた。「君たち新入社員は会社にとって赤字なんだ。早く借金を返せるように」
そう言われてもピンとこない。心に熱く燃える何かがあるわけでもない。楽しく過ごせればいいやというのが本音だった。お気楽サラリーマンと言われればそれまで。そんな会社員生活が始まった。(ソニー元社長)
【図・写真】父(左)の助言が私をソニーに導いた
渡辺恒雄さん(読売新聞グループ本社主筆) 父性への献身、取材も経営も(追想録)[2025/04/04 日本経済新聞 夕刊 2ページ 828文字 PDF有 書誌情報]
渡辺さんが本紙朝刊に「私の履歴書」を執筆したのは2006年12月のことだった。1回目のタイトルは「両親」。8歳のときに47歳で亡くなった父の話から物語は始まる。
日経側の窓口として渡辺さんの話を聞きながら「父の不在」が渡辺さんの心のどこかで、音楽の通奏低音のように響いていたのではないか、と思うようになった。
政治部に配属された渡辺さんは、当時の自民党副総裁だった大野伴睦の番記者として大野邸に通ううち、格段の信頼を得る。取材は勿論(もちろん)するけれど来客の振り分けといった秘書顔負けの役回りを務め、政争に敗れて一人涙する政治家に寄り添った。
大野氏が病に倒れた折には、病状を隠すため他人が吟じた俳句を大野作として記者の前で披露してもいる。政治取材の手法が昭和30年代と現在とでは違うとはいえ、その親密さは信じ難い。
新聞連載に加筆した単行本「君命も受けざる所あり」で、大野氏病没のくだりに「八歳で父を失った私は、意識をしないまま大野さんに父の姿を重ねていたのかもしれない」と書いている。
長じて読売新聞社の経営陣に名を連ねるようになった渡辺さんは、読売中興の祖で、社長を退いた後も実権を握っていた務台光雄氏の薫陶を受ける。毎日2時間の昼食を共にしながら、経営の神髄と帝王学を授かった。務台氏が94歳で亡くなった折の心境を、同書にこう書き記している。
「実の父を亡くしたときにもこみ上げてこなかった深い悲しみが、身内に溢(あふ)れて胸底をかきむしる」
相手が政治家であれ経営トップであれ、そこにあったのは、子の父親に対する献身ではなかったか。そのことを尋ねてみたら、渡辺さんは「ふふ」と含み笑っただけだった。
いずれにしても、これだけは言える。亡くなるまで「主筆」の座にあった渡辺さんは、間違いなく読売新聞社の偉大な父だった。
=24年12月19日没、98歳
(元編集委員 野瀬泰申)
【図・写真】自民党総裁選さなかの大野伴睦氏(左)と渡辺さん(1960年)
平井一夫(4) 変ジャパ 違いを尊重し合うICU 大学で「自分は何も知らない」(私の履歴書)[2025/04/04 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1396文字 PDF有 書誌情報]
中学3年でカナダのトロントから再び東京に戻ることになった。校則や「中学生らしく」でがんじがらめの日本の学校に戻るのかと思うと、憂鬱でならない。
「どこかに逃げ道がないものか……」
思いついたのがカナダにも米国にもある日本人駐在員の子供向け補習校だった。逆に、日本にも米国人向けの学校がないものか。調べてみると東京都調布市にアメリカン・スクール・イン・ジャパン(ASIJ)という学校があった。東京の自宅からも近い。
これがびっくりするくらい学費が高い。いくらなんでもこの金額では……。でも日本の学校は嫌だ。やっぱりここしかない。「どうしてもこの学校に行きたい」。ありがたいことに、両親は私の願いを受け入れてくれた。
こうして進んだASIJは校内に一歩足を踏み入れると、そこはもうアメリカ。私にとっては理想の環境だった。
いつも通う場所があった。科目ごとに勉強を助けてくれるアシスタントが待機するリソースセンター。そこに私たちのたまり場があった。
ASIJには米国人や日本人の帰国子女などが通っていたが、そこには日本人のバイリンガルが集まっていた。私のお目当ては「少年ジャンプ」など日本の漫画だった。
ここで出会ったのが、2学年上のジョン・カビラさんだ。当時は英語と日本語のごちゃまぜで話していた記憶がある。他の仲間とも、いつもたわいもないバカ話。それが、なんとも居心地が良い。これまでの学校で得たことのない感覚だった。
ジョンさんとはすぐに遊び仲間になった。同じ大学に入ると一緒に六本木のディスコに繰り出したものだ。就職先も同じCBS・ソニー。しかも同じ部署の先輩となり、仕事の面でもたびたびアドバイスをいただくことになった。
ちなみに前回、たあちゃんこと西尾忠男君と再会したきっかけがソニーを取り上げたテレビ番組だと紹介した。この番組の司会を務めていたのがジョンさんだった。まさかあんな形でかつての仲間たちと再会することになるとは、夢にも思わなかった。
ASIJ入学後にまたしても父のサンフランシスコ転勤が決まったのだが、ようやく見つけた居場所は失いたくない。1年だけ同行して私だけ日本に戻り、ASIJに復学させてもらうことになった。
進学先も意中の大学があった。ASIJのすぐ近くにある国際基督教大学(ICU)だ。今思えばあの頃のICUほどダイバーシティーが進んだ世界はないのではないか。
各国からの留学生はもちろん、日本人学生の出身も実に様々だ。私のように日本人ながら国内外で教育を受けた者は「変ジャパ」と呼ばれることがあった。もっとも、ICUは誰もがマイノリティーという空気で、差別的なニュアンスは感じない。
それより痛感したのが「自分は何も知らないんだ」ということだった。ものごとの見方や考え方は国や出身によって異なる。もちろん日本の中でさえ。普段の何気ない会話の中に「異見」が満ちていることに気づく。どちらが正しいかという以前に、互いに「違い」を尊重し合うことから発見や学びが生まれるのだ。
私は後に経営者になって「異見を求む」と常々口にした。ICUに至るまでの異文化体験の連続が原点になっている。一方で、当時の私はこんな思いを強くした。
「これからは日本人として日本で生きる」
(ソニー元社長)
【図・写真】学生時代には英語講師などのアルバイトで買ったマツダ「RX―7」を乗り回した
平井一夫(3) リフラックシティ 40年ぶり NYの友と再会 日本で学校にカルチャーショック(私の履歴書)[2025/04/03 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1381文字 PDF有 書誌情報]
あれは2013年のことだ。空港のラウンジで座る私に、スタッフの方がこう話しかけてきた。
「失礼ですが、平井様でしょうか。弊社の西尾からメッセージを預かっています」
唐突なことで理解が追いつかなかった。「西尾って、いったい……」。ラウンジから考えて日本航空の方だろう。「あ、もしかして、たあちゃん?」。的中だった。
たあちゃんこと西尾忠男君と出会ったのは、この時から40年以上も前のことだ。場所はニューヨーク市クイーンズ区の巨大団地、リフラックシティ。小1でやって来た私に少し遅れて西尾家が同じ棟に引っ越してきた。たあちゃんは私のひとつ年下で、同じ現地のPS13という学校に通うことになった。
そのたあちゃんが日本航空の役員になっていた。手紙を読むとテレビで、当時ソニー社長だった私を特集する番組を見て「あのかずおちゃんか」と驚いたそうだ。
文面に目を落とすと、40年前の光景がよみがえってくる。団地のパン屋の裏の空き家を秘密基地と称してたむろしたり、近所にある10セントの激安バーガーを食べに行ったり、雪の日に一緒にそり遊びに夢中になったり……。
ようやく異国の暮らしにも慣れ、英語にも困らなくなった頃だったが良いことばかりではなかった。まだ幼いのに「ジャップ」と露骨に差別されることもあれば、パールハーバーがどうのと一方的にさげすまれることもあった。親にも言えないモヤモヤを数え上げればキリがない。そんな中、やはり同胞の親友の存在は特別だった。
再会すると互いに髪には白いものが混じっていた。だが、あのニューヨークの片隅で暮らした少年の頃の思い出話がとどまることがなかった。
ただ、カルチャーショックが大きかったのはむしろ、日本に帰国した時だった。まず、なぜか本来より1学年下になったのだ。なにより、横並びが徹底された日本の学校の習慣には面食らった。
ある時、1週間分の宿題をまとめて提出したら先生が怒り始めた。「ここは日本。アメリカじゃないんだ」と言われたが、いまだに意味が分からない。「なんで僕たちが掃除するんですか」と聞くと怒鳴られた。米国の学校にはたいてい掃除の方がいるので、素朴な疑問として聞いただけなのに。髪形や服装まであれこれと口出しされることには、憤りを通り越して子供ながらにあきれたものだ。
私はこの後、父の転勤にともない10代を通じて日本と北米を行き来することになる。4年間のニューヨーク生活の後に日本に戻り、小学6年になるとカナダのトロントに。2年半で東京に戻ってしばらくすると、次の行き先はサンフランシスコだった。
どこに行っても大なり小なり異なるカルチャーにぶつかる。どこに行っても周囲からは異分子と見られ、孤独の中から前へと進むことになる。いつもそうだった。振り返れば貴重な経験であり、「〝異〟なるもの」の力を取り込むという経営者としての信念の土台になったと思う。
日本と北米を行き来する青春時代を過ごしたことで、私は次第にこう考えるようになった。「日本人として、日本で生きていこう」。日本人なのだから当たり前だし、覚悟を決めたのはもう少し後のことだが、この頃からうっすらと自覚するようになった。そのためには日本に根を下ろす必要がある。中学3年の私は妙案を思いついた。
(ソニー元社長)
【図・写真】前列中央が西尾さん、後列中央が筆者
平井一夫(2) クリスとジェン NY転居 孤独と発見の旅 団地の隣人と遊び、英語は上達(私の履歴書)[2025/04/02 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1399文字 PDF有 書誌情報]
「お父さんはアメリカのニューヨークというところに転勤することになったから」
そう言うと、父は世界地図を広げて日本からずっと離れた大陸の右上を指さした。「ここがニューヨークだ」
小学生になったばかりの私には理解が追いつかない。「アメリカもニューヨークもほかの国ってこと? テンキンってなんだ?」。目の前の父・喜平がとてもうれしそうだったことはよく覚えている。
これから一家は住み慣れた東京都杉並区の下井草を離れてアメリカという外国で暮らすという。そこでは英語という東京とはまったく違う言葉が使われているのだとか。
なんでも父は昔、アメリカの隣のカナダという国に留学したことがあり、いつかまた海外で暮らしたいと願っていたそうだ。1967年の当時のこと。今思えば父が勤める三井銀行(当時)でも極めて狭き門を突破したのだろう。
こうして我が家は米国へと移り住むことになった。当時はハワイとサンフランシスコを経由する長旅だ。JFK空港に降り立ち、一足先に現地に入っていた父の姿を見つけた時はホッとしたものだ。
日本とは逆の席にハンドルがあり、よく見れば道を行き交う車の流れも逆だ。不思議な感覚でしばらく車に揺られると新しい我が家に到着した。リフラックシティという巨大な団地の6階だった。
ベランダから見渡した景色が私にとって初めての「アメリカ」だった。クイーンズという街にずらっと並ぶ小さな店の列。通りを行き交う人の肌の色はまちまちで、みんなちょっと鼻が高い。ようやく下井草とは全くの異世界にやって来た実感がわいてきた。
初めて地元の学校に通う日の朝。母・愛子が私に3つのカードを手渡した。私には読めないが、英語で「トイレに行きたい」「気持ちが悪い」「親に連絡してほしい」と書いてあるという。3枚のカードにひもを通し、私の首からぶら下げた。「困ったら先生にこれを見せるのよ」
母の気遣いはありがたかったが、実際に学校に行くと3枚のカードが役に立ったという記憶はない。全く意味が分からない言葉が飛び交う教室に放り込まれた私は、子供ながらに強烈な孤独にさらされることになった。
教室に足を踏み入れると何もできないという無力感が襲ってくる。毎日がその繰り返しだ。これは、とんでもないところに来てしまった……。
そんなある日のことだ。団地のベランダに出て街の景色を眺めていると、隣から声がした。仕切り板の向こうを見ると私と同じくらいの年ごろの男の子がなにやら話しかけてきた。何をどう返したのか、まったく覚えていない。彼の名はクリス。これをきっかけに互いの部屋を行き来して遊ぶようになった。姉のジェンともすぐに打ち解けた。
このふたりの母親はシングルマザーで留守にすることが多かった。それならばと、私の母が姉弟を自宅に招くことが多くなり、毎日のように遊ぶようになった。
3人でテレビを見たり、売店で1セントのバブルガムを買って公園に行ったり、ピストルのおもちゃで遊んだり。おかげで私の英語は急速に上達していった。これ以降、英語で困った記憶がないのはクリスとジェンのおかげだ。
こうして始まった異国での生活。思えばこれが「異邦人」としての第一歩だった。現在に至るまで何度も異なるカルチャーを行き来することになる。発見に満ちたスリリングな旅の始まりだ。
(ソニー元社長)
【図・写真】幼くしてニューヨークに渡った(左が筆者)
平井一夫(1) 「異邦人」を生きて 葛藤・悩み抱え 坂道登る 北米と日本を何度も行き来(私の履歴書)[2025/04/01 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1328文字 PDF有 書誌情報]
この連載に着手した時のことだ。私がソニー社長の頃にCEO室で働いてくれていた社員から1枚の書類を手渡された。
A3用紙の両面にびっしりと並べられていたのは、私が2012年に社長に就任してから数年間、雑誌や新聞で取り上げられたネガティブな記事の数々だった。
「テレビをやめるのが先か、平井社長が辞めるのが先か」
就任から3週間後に出た日刊ゲンダイの記事が洗礼だった。その後も容赦なく続く。
「ソニーの経営は2周遅れ」(日刊ゲンダイ)、「泥舟ソニーの醜い社内抗争」(選択)、「ソニー消滅 尽き果てる延命経営」(週刊ダイヤモンド)。
「ソニーとSONY壁厚く」と題した日経産業新聞の記事では、「英語に堪能、人の話もよく聞く――。評判は悪くはない。ただ、そんな資質だけでソニーの改革を実現するのは容易ではない」と論評されていた。
どれも実に懐かしい。ソニーが輝きを失い、迷走が続く中での船出だったことは、私も重々承知していた。当時の私はこんな批判が出ても人前ではまったく表情に出さず、ひょうひょうと日々の仕事に向かっていたと思う。
だが、私も人間なのだ。ムカッとすることもあれば、内心で「このヤロウ」と思うこともある。そんな姿は見せまいと自分の感情を押し殺し、「言わせておけばいい」と平静を装っていたのだ。
人員削減や事業売却を決める時、胸が痛まない経営者などいない。だからといって決断を避けていては、より大きな悲劇を生む原因を作りかねない。こんな重圧や痛みから、リーダーは逃げてはならない。周囲に悩む姿を見せてもいけない。そう自分に言い聞かせて走り抜けてきた。
思えば、私は社長という役割を演じきろうとしていたのかもしれない。後任の吉田憲一郎さんはじめ優秀な人材に恵まれたおかげで、ソニーのターンアラウンド(再建)という大仕事にメドをつけられたと思う。その代償として6年の任期を終えた時、まだ57歳なのに心も身体もボロボロだった。
社長就任時に一斉に疑念の目を向けられたのは、私のキャリアが異例だったことと無縁ではあるまい。ソニーではなく音楽子会社のCBS・ソニー(当時)に入社し、最初の仕事は来日する海外アーティストへの随行だった。
その後、ある先輩から「ちょっと手伝ってもらえないか」と言われてゲーム事業に関わった。期間限定の約束だったのにゲーム会社の再建に奔走し始め、いつの間にか私は「ゲームの人」と見られるようになった。ソニーで長く「本業」と考えられていたエレクトロニクス事業に本格的に携わったのは、副社長になってからだ。
異なる分野に飛び込むたびに「お手並み拝見」の冷たい視線と戦ってきた。どこに行っても私は「異邦人」。思えば社会に出る前からそうだ。
少年時代は父親の仕事の関係で、何度も北米と日本を行き来した。どこに行っても異邦人に安住の場所はない。目の前に現れる未知なる世界に身の丈を合わせ、時に戦い生きてきた。周囲からは明るい少年に見えたと思うが、心の中では形容しがたい葛藤や悩みを抱え続けてきた。
これから1カ月、異邦人がどんな思いで坂道を登り、ソニーと向き合ったのか、その胸の内を語りたい。
(ソニー元社長)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
尾身茂(30) お互いさま パンデミック再来は不可避 立場超えた「対話」こそ活路に(私の履歴書)終[2025/03/31 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1362文字 PDF有 書誌情報]
コロナ禍の3年、私たち専門家には様々な批判が向けられた。そんなこともあってか多くの人から「分科会会長を辞めたいと思ったことはないのか」と聞かれた。
パンデミック(世界的大流行)が長引くと、人々の生活や社会は多大な影響を受ける。命を救うため感染対策を重視すれば社会経済が傷む。社会経済を動かそうと思えば感染者が増え医療が逼迫する。
ここには数学の問題を解くようなすっきりした正解はない。価値観や立場が違えば、見える景色も異なる。相反する意見があってもおかしくない。
正確な言葉は忘れたが、遠藤周作がかつて小説書きの仕事は苦楽(くるたの)しいと言った。また、小林秀雄は、人間とは悲しい動物でもあり、与えられた課題を克服することで生を実感すると述べていた。
このことは私自身にも当てはまるかもしれない。
コロナ禍において、つらい思いをしなかった人はいない。それぞれの立場で直面した困難に対処したと思う。
野球選手はボールという課題が来れば打ち返すことに集中する。私もコロナウイルスから次々と投げられる変化球をさばくだけで精いっぱいだった。分科会を辞めるかどうか考える余裕などは全くなかった。
最近、生態学、進化生物学などの専門家62人の意見をまとめた「なぜ新型ウイルスが、次々と世界を襲うのか?」という本が出版された。グローバル化、人口増、地球温暖化などに加え、生物多様性の破壊が、繰り返されるパンデミックの背景にあるという。再来は避けられないだろう。
100年に1度といわれたコロナが一応落ち着いたのもつかの間、膨大な量の情報が瞬く間に拡散する中、人類社会は分断の様相を呈している。
歴史学者によれば、我々人類の祖先、ホモサピエンスだけが生き残れたのは、対峙する動物たちの情報を共有、更にそれを基に連携することで、厳しい環境に適応できたからだそうだ。
しかし、今、社会が存続するために役立つはずの情報がかえって不安定要素になっている。
膨大な数の情報から自分の価値観や感情に合うものだけを選択的に取り入れ、相手の考えや気持ちを考慮せず一方的に主張する。こうした傾向が強まっているように思える。
現代社会の課題は感染症も含めどれも複雑で単純な答えはない。世代、職業、立場、時には国の違いを超えて、真の意味の「対話」が求められる。それが実を結ぶには客観的な情報だけでは不十分で、相手の価値観や感情といった情報も不可欠だ。
しかしこうした情報はインターネットには載っていない。自分が相手の立場になったらどう感じるだろうかと想像することでしか得られない。
完璧な人間などどこにもいない。誰しもが間違え得る。私たちはたまたま日本で生まれたが、他の国で生まれたかもしれない。皆「お互いさま」だ。これがリアリティーであり人類の生み出した知恵だ。
ネット時代、デジタル時代だからこそ、日本でも世界でも「OTAGAISAMA」の意味をもう一度考え直すことがあってもよいのではないか。
最近は、社会のために貢献したい、と考える志の高い若者が多い。与えられたこの命が続く限り、未来を担う若者との対話を続けたいと思っている。
(結核予防会理事長)
=おわり
あすからソニー元社長 平井一夫氏
【図・写真】色々な人と対話を続けたい(2024年10月、都内で)
尾身茂(29) 全世代 参加型「市井会議」を設立 困難抱える若者の支援ともに(私の履歴書)[2025/03/30 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1295文字 PDF有 書誌情報]
20年ぶりに日本に帰国したら、剣道以外にもう一つやりたいことがあった。
世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局の勤務時代、世界中の国々を訪問した。多くの発展途上国は経済的には日本に大きく後れている。だからこそなのか、一般市民がNPOなどを立ち上げ、自分たちのコミュニティー作りに大きく関わっているのが興味深かった。
例えばタイには「三角形は山を動かす」と呼ぶ運動(ムーブメント)があった。三角形とは政治家・官僚、専門家、一般市民を指す。3者間の対話を通し重要な政策が決まる。実際にパブリックヘルス(公衆衛生)に関するある法律もこのトライアングルから生まれた。
2014年12月の衆院選の投票率は52%強と戦後最低を更新した。このとき、私は新聞のコラムを連載していた。その中で「国民主権は選挙の時だけ。誰に投票しても、自分たちの懸念や願いは届かない。そんな無力感が漂った選挙だった」と評した。
その上で「わが国には政治家、官僚以外にも傾聴すべき知恵、貴重な情報、高い志を持つ人が大勢いる。そろそろ日本の将来を良くしたい巷(ちまた)の老若男女が一堂に会する“参加型市井会議”が作られても良いのではないか」と記した。
数日後、人づてに評論家の大宅映子さんがラジオの番組でこのコラムを好意的に取り上げていたと聞いた。面識はなかったが会いにいった。
大宅さんは開口一番「尾身さん、有言実行で、あなたがやればいいじゃない」。
「(大宅さんが)手伝ってくれたらやりますよ」と持ちかけたところ、10年は続け、きちんと成果を出すことを条件に、参加してもらった。
15年9月こうしてNPO法人「全世代」は発足した。これまで医師の偏在問題に関する提言や待機児童問題の解決策として病院内保育を地域に開放する取り組みなどをしてきた。
こうした実績が認められ、20年1月には寄付者に税の控除が認められる「認定NPO法人」に格上げになった。
ただ、走り出してわかったが「全世代」といいながら、お金にも時間にも余裕がある年配者が活動の主体になってしまう。当初、興味を示した若者も何人かいたが、仕事や勉強に忙しく長続きしなかった。
ところが最近になってようやく全世代の趣旨に賛同する若者が徐々に出てきた。今の若い人は内向きとか元気がないと聞いていたが、私たちの前に現れた若者たちは違っていた。社会をよりよくしたいとの思いが強い。
共通するのは、仕事以外の領域にも関心があり、視野が広いこと。中には本人自身が、引きこもりやいじめを経験した人もいる。だからか、社会が抱える課題について鋭い問題意識をもっている。
今増えている居場所のない悩める若者たちへの支援から、まず取り組みたい。
人工知能(AI)が席巻する混迷の時代に、皆が生きていてよかったと実感できるのはどんな社会か。こんなテーマについて、週末、彼らとブレーンストーミングする。これが楽しい。自分とは全く違う視点にいつも刺激を受ける。
半年後には発足、10年となる。やっと全世代の体を成してきた。(結核予防会理事長)
【図・写真】全世代のメンバーたちと(前列左が筆者)
尾身茂(28) 結核 国民病、いまもなお 長年の経験、コロナ下で生きる(私の履歴書)[2025/03/29 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1283文字 PDF有 書誌情報]
40年を超す専門家として私が初めて関わった感染症が結核である。
自治医科大を卒業した後の「勤務義務」期間中、山谷にあった東京都の診療所に勤務した時期があった。ホームレスが多く集まる「ドヤ街」と称された地域だ。
ロッキード事件のころだったからなのか。患者さんが来て「お名前は?」と聞くと「田中角栄」。次もまた同じ答え。その次の患者さんにはこちらから「田中さんですね」とたずねると「はい、角栄です」。
高熱やだるさを訴えて来る人のレントゲンを撮ると、肺は真っ白。みな結核だった。
世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局長に再任された2期目、ポリオ根絶終了後の最優先課題を結核対策にした。
成人の感染症として最も多くの死亡者を出すのが結核だ。特に発展途上国においては多くの若い人が発症するため、社会経済発展の阻害要因になっていた。
結核は、江戸時代にはコレラなどの陰に隠れており、あまり問題視されていなかった。ところが明治に入り、欧米列強に追い付け追い越せと富国強兵、殖産興業の名のもと、全国から若い女性が紡績工場に集められ、劣悪な環境下で労働させられた。結核勃興の契機となった。
戦前、文字通り国民病であった。官民が力を合わせ対策に取り組むべしという香淳皇后からの令旨のもと、1939年、結核予防会が設立された。国内における非営利団体の先駆けである。
現在は秩父宮妃殿下の後を継いで、秋篠宮皇嗣妃殿下が総裁をされている。
結核はすでに過去の病気だと考えている人が多いだろう。しかし、違う。
新型コロナのパンデミック(世界的大流行)による死亡者数は2020年から3年間で670万人、平均すれば年約220万人だった。
一方、結核はコロナ以前からずっと毎年100万人以上が命を落としている。結核は持続的、慢性的なパンデミック状態といえる。
国内に目を転じても侮ることは決してできない。罹患(りかん)率は徐々に下がってきており、世界的にみると低まん延国入りを果たしたが、欧米先進国に比べるとまだ2倍だ。
日本の結核の特徴は、高齢者と技能実習生や留学生など外国出生者に多いことである。
私もそうだが、高齢者の多くは若い時期に感染している。免疫力が落ちてくると「休眠」していた結核菌が活性化し、発病する。80歳代の結核患者の約4割が命を落とす。高齢化社会ならではの課題である。
また、外国出生者は、現在のグローバリゼーションによりますます増加傾向にある。欧米先進国では患者数のほとんどが外国出生者により占められており、日本も早晩そうなるだろう。
世界の結核が征圧されない限り日本への結核菌の流入リスクは常に存在する。米国の例が示すように、対策を緩めるとかならずリバウンドが起こる。
実は保健所などによるこれまでの結核対策の経験が、接触者調査など今回のコロナ対策にも生かされた。結核への対応は今日でも重要な感染対策の柱の一つである。
結核予防会としての使命をこれからも果たすため、結核征圧に向けて全力を尽くしたい。
(結核予防会理事長)
【図・写真】結核予防の大切さを啓発するポスター
篠田正浩さん死去 映画監督「瀬戸内少年野球団」 94歳[2025/03/28 日本経済新聞 朝刊 46ページ 511文字 PDF有 書誌情報]
映画「心中天網島」「瀬戸内少年野球団」などで知られる映画監督の篠田正浩(しのだ・まさひろ)さんが3月25日午前4時55分、肺炎のため死去した。94歳だった。お別れの会を行うが日取りなどは未定。
岐阜市生まれ。早稲田大文学部で中世・近世演劇を専攻した。1953年に松竹大船撮影所に入り、助監督として原研吉監督らにつく。60年に「恋の片道切符」で監督デビュー。寺山修司、武満徹らと組んだ「乾いた湖」が高く評価され、大島渚、吉田喜重らと共に松竹ヌーベルバーグの一人と目される。
松竹退社後の67年に女優の岩下志麻さんと結婚し、独立プロの表現社を設立。69年「心中天網島」など野心作を次々と世に問い、「夜叉ヶ池」などを経て、終戦直後の淡路島の少年少女を通して戦後日本を見つめた「瀬戸内少年野球団」(84年)がヒット。86年「鑓(やり)の権三(ごんざ)」はベルリン国際映画祭銀熊賞(芸術貢献賞)を受けた。
以後「舞姫」「少年時代」など芸術性、社会性と娯楽性を兼ね備えた映画を撮り続けた。2003年「スパイ・ゾルゲ」完成後、引退を表明した。
著書「河原者ノススメ」が泉鏡花文学賞。05年8月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
篠田正浩さん死去――昭和の日本、描いた情熱(評伝)[2025/03/28 日本経済新聞 朝刊 46ページ 565文字 PDF有 書誌情報]
満州事変が起きた1931年生まれ。「戦争やその後の冷戦を見てきた人間として、昭和の日本を映画で表現しなくてはいけない」と語っていた。その結果、自身最後の監督作品に選んだのがドイツのジャーナリストとして来日した旧ソ連のスパイを描いた「スパイ・ゾルゲ」だった。
本紙「私の履歴書」連載時、日本文学者ドナルド・キーンから届いたという「スパイ・ゾルゲ」に関する感想を日本語で記した手紙のコピーを、うれしそうに見せてくれた。
早稲田大学卒業後は松竹大船撮影所に入所するが、当初は箱根駅伝を走ったという経歴ばかりが注目されたという。
60年公開の「乾いた湖」で脚色を担当した歌人・劇作家の寺山修司に関しては、彼と出会うことで「撮影所という囲われた世界から離脱して人間の海に泳ぎ出すことができた」と記している。
松竹から独立後は近松門左衛門の人形浄瑠璃を映画化した「心中天網島」も注目を集めた。大学時代に専攻した演劇史には一貫して関心を持ち続け、「河原者ノススメ」の取材のときは「映画監督の余技だと思われると心外です」と語った。
「瀬戸内少年野球団」のヒットの背景には、作家の司馬遼太郎からの明るい作風を求めるアドバイスがあったという。話し始めたら止まらない情熱的な言動が、妻の岩下志麻さんをはじめ、多くの人の心をつかんだのだろう。
(中野稔)
尾身茂(27) 剣道 63歳で半世紀ぶり再開 大会で準優勝、生涯の学びに(私の履歴書)[2025/03/28 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1303文字 PDF有 書誌情報]
フィリピンのマニラに赴任して7、8年たったころだと思う。自宅でたまたま見たNHK国際放送の番組に釘付けになった。「昭和の剣聖」といわれた持田盛二の稽古風景だった。
全日本大会にも出場した若き剣士が80歳近い持田名人を素早く果敢に攻めていく。しかし、動きが全て見透かされているようで、まったく歯が立たない。名人の動きには一切の無駄がなく、悠然とかわすその姿に、感銘を受けた。
日本に戻ったら剣道を再開しようと心に誓った。
剣道との出合いは小学生のころ。母の勧めがあって近くの道場に週1、2回通った。礼儀を身につけてほしいと思ったのだろう。大人に交じって、剣道の基本を学んだ。
キリッとした道場の雰囲気は、やんちゃ坊主にも新鮮だった。
高校時代は剣道部に所属し、かなり熱心に稽古に励んだ。
初段審査は合格したが、2段は不合格。その後、米国留学などもあって徐々に剣道から遠ざかり、結局、半世紀近く竹刀を持つことはなかった。
2009年、59歳で帰国後、すぐに再開しようと思ったが、新型インフルエンザ対策の仕事に追われていたため、できなかった。
小澤博先生が主宰する国内外で名の知れた「興武館」の門をたたいたのは、4年後の63歳のときだった。
中野駅南口を出て10分ほど歩くと道場があった。玄関の外からすでに稽古が始まっている様子がうかがえた。先生に挨拶をすると、温かく迎えてくれた。
「尾身さんは自分のペースでゆっくりやってください」と言われ入門決定。仕事の関係で稽古には週1回しか行けないが、その日は朝からソワソワし妻から「恋人に会いに行くみたい」と冷やかされる。
そのうちお世辞だと思うが先生からは「年の割には筋がいい。5段まではいける」と言っていただいた。「お褒め」の言葉におだてられ、コロナの期間を除き今も稽古を続けている。
道場の仲間はほとんど私より年下だが剣道歴が長い。強いだけでなく人柄が素晴らしい。こうした仲間との稽古のおかげで、3段、4段と昇段、そして昨年、5段になった。
まだ3段のころ、中野区の60歳以上のシニア大会に出場した。
事前に先生から「尾身さんの得意は、出頭面、それでいくべし」とアドバイスを受けていた。出頭面とは、相手の動く気配を察して瞬時に相手の面を狙う技だ。
なんと一人、二人、三人と、全て出頭面が決まった。そして決勝戦だ。
後で知ったが、相手は練達の剣士で私のこれまでの立ち合いを見ていたようだ。
相手がわずかに動く。ここぞとばかり私は出頭面を狙う。その瞬間、相手の竹刀が私の小手を捉えた。勝負あり。
私は相手の出頭面の誘いにまんまと乗ってしまったわけだ。剣道の奥行きの深さを学んだ一瞬だった。
稽古が終わると、全員で雑巾がけ。その後、車座になって日本酒を楽しみながら、剣道談議、よもやま話が始まる。翌日早朝から仕事があるので少しだけと誓うが、ついつい最後まで付き合ってしまう。終わった後の気分は格別だ。その日はぐっすり眠れる。
剣道をやっていて良かったとつくづく思う。身体が続く限り「生涯剣道」を目指したい。
(結核予防会理事長)
【図・写真】興武館にて小澤博館長(左)と
尾身茂(26) オミクロン株 「5類」移行で政府と距離感 初期より難しかった出口戦略(私の履歴書)[2025/03/27 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
ウイルスは変異を繰り返しながら進化する。新型コロナの場合、武漢株、アルファ株、デルタ株……と、流行の主役がめまぐるしく変わっていった。
2021年12月、これまでと比べて致死率は低いものの伝播(でんぱ)力の強いオミクロン株が出現した。22年に入ると瞬く間に広がり、私たちはこれまでとは異なる感染症だと感じるようになった。
感染症対策重視の「強い対策」から、オミクロン株に合った「弾力的対応」にどう移行すべきか、議論を始めた。
ちょうどその頃、まん延防止等重点措置の適用を巡って分科会メンバーの一人で経済学者の大竹文雄氏から異論がでるようになった。
コロナの致死率がかなり低くなってきているので「まん延防止」の発出条件を満たしていないのではないかとの意見だった。これ自体、的を射た指摘だった。
私たち医療の専門家は感染症学の角度からやや違う見方をしていた。感染症の評価には致死率だけではなく、伝播力や医療への負荷も考慮しなければならない。
致死率は確かに下がってきているが伝播力が極めて高いため、死亡者の絶対数は確実に増えていた。
オミクロン株の出現は政府、専門家双方に新たな課題を投げかけた。同時にそれまでとは異なり政府と専門家の「距離感」も明らかになってきた。
社会生活を少しずつ元に戻すという議論は、社会活動再開に伴う死亡者などの犠牲をどこまで許容するかという価値観の問題につながる。科学的分析ではその問いには答えられない。最後は選挙で選ばれた政治家が決めるべきだとの考えが分科会の総意だった。
このため、4月27日の分科会では、感染症対策と社会経済活動の重点の置き方によって、4つの選択肢を政府に示し、その後の分科会でさらに議論を深め、最終的に政府が決定することを求めた。
ところが政府は、選択肢だけを示されても困る、専門家で1つに絞り込んでほしい、と言ってきた。
私たち専門家は、感染症法上の位置づけを「2類相当」から「5類」に移行する、社会全体にとって極めて大事な「出口戦略」こそ、経済専門家、自治体などが参加する分科会でしっかり議論すべきだと思っていた。
1カ月かけて練り上げた「オミクロン株に合った弾力的な対応」とスムーズな「平時への移行」について、7月14日に開かれた分科会で議論しようと考えたが、政府は応じなかった。
どうしてこのような「距離感」が出てきたのか。オミクロン株以前は、感染症対策に軸足が置かれていたため、専門家が政策作成において中心的な役割を担ってきたが、社会・経済を回す時期になってきたので、これからは政治家がリーダーシップを取るべきだと政府は考えたと思う。
しかし同時に、参議院選挙が間近になっていたこの時期、社会全体が高い関心を示すこのテーマに、政府主導で決断した場合の影響も考えたのかもしれない。
「出口戦略」は、ある意味パンデミック(世界的大流行)初期の感染対策より難しかったと言える。政府と専門家の立場の違いだけでなく、「コロナ疲れ」に閉口する一般市民と、院内感染を何とか防ぐため現場で闘う医療・介護関係者の間でも見えていた景色は違っていた。
政府は23年1月27日、大型連休明けの5月8日から「5類」に移行することをようやく決定した。
(結核予防会理事長)
【図・写真】「5類」移行決定後に記者会見する筆者
尾身茂(25) 東京五輪 専門家有志で「無観客」提案 最も悩み、難しかった決断(私の履歴書)[2025/03/26 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1357文字 PDF有 書誌情報]
感染対策と社会経済のバランスをどううまくとるか。政府と専門家の考えは度々、微妙に違った。特に感染状況が厳しくなると、その差は明らかになり、マスコミでも大きく取り上げられた。代表的なのが「Go To キャンぺーン」と東京五輪だ。
政府は、コロナにより打撃を受けた観光関連産業などを支援するため、2020年7月ごろ、東京などで感染拡大が起きていたにもかかわらず、「Go To」の開始を検討していた。
7月16日、感染症対策分科会が開かれた。当初、「Go To」が議論されるはずだったのだが、会議開始直前、報道を通じて22日から「Go To」が始まるとの決定を知らされた。
「分科会は何のためにあるのか、ただ政府の決定事項を追認するためだけなのか」。私を含め専門家は大いに不満だったが、22日開始を覆すことなどできなかった。
11月に入ると再び感染が急拡大し、医療の逼迫の懸念が高まってきた。20日には、こうした地域を対象として「Go To」を中止するよう政府に求めた。
もちろん中止によってダメージを受ける事業者には財政支援も同時に検討するよう提言には付け加えたが、残念ながら政府はすぐには動かなかった。
12月になると再び緊急事態宣言を発出せざるを得ないほど状況は悪化してきた。14日、菅義偉首相は全国一律で「Go To」休止を宣言した。
私たちが提案した一部の地域に限定した見直しよりも踏み込んだ内容だ。首相の感染対策を何とかしたいという思いが伝わってきたが、提言から3週間が過ぎていた。
1年延期になった東京五輪への対応はさらに厳しいものだった。
当初、世界最大のスポーツイベントについて発言するつもりはなかった。実際、21年3月、国会に呼ばれ野党の議員から「(感染状況が)どの程度になればオリンピックは開催可能か」と質問され「開催について判断、決断する立場にない」と答えていた。専門家として矩(のり)を踰(こ)えるべきではないと思っていた。
しかし開催まで2カ月を切った6月に入ると、そうした姿勢を転換せざるを得なくなった。7月の4連休、夏休み、お盆が重なり、その上、感染力の強いデルタ株の出現を考えると、開催の前後には緊急事態宣言を出さざるを得なくなると判断したからだ。
現状の評価や五輪開催が感染に与える影響について、意見を表明しなければならない。一般市民、国、東京都、そして国際オリンピック委員会(IOC)などにも納得してもらう必要がある。
私たちは毎夕、都内の大学の会議室に集まり、どこまで踏み込むのか、どのようなデータを出すか、どんな言葉を使うか、など深夜まで議論を重ねた。
我々の責任だということは頭ではわかっていた。しかし、導き出す結論に対する国内外からの反応も予測できた。私自身、最後まで迷う気持ちがどこかにあった。
その時、メンバーの一人からメールが届いた。「ここで(五輪に対する見解を)出さないなら、みな委員を辞めたほうがいい」。この言葉で私は覚悟を決めた。
6月18日、専門家有志26人により「無観客五輪」を提案した。何度か「ルビコン川」を渡った。振り返れば東京五輪開催を巡って渡った川が最も深く、激流だった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】東京五輪は緊急事態宣言下、無観客で開催された
尾身茂(24) JCHO 57病院継承、火中の栗拾う コロナ禍でいわれなき批判(私の履歴書)[2025/03/25 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1307文字 PDF有 書誌情報]
新型コロナの流行が長期化するにつれ、当初の好意的な意見に代わって、私への批判が相次いだ。いちいち反論していてもきりがない。しかしこのときばかりは違った。
理事長を務めていた地域医療機能推進機構(JCHO)について、ある雑誌が「補助金をもらっているのに、コロナ病床率が低い。ぼったくっている」と批判した。
JCHOは、国立病院機構と同様に公的性格の強い独立行政法人である。例の年金記録問題で解体した旧社会保険庁から、社会保険病院、厚生年金病院、船員保険病院の3団体が関係する計57病院を引き継ぎ、2014年4月に発足した。「民営化」と逆行する「公営化」である。
当時、売却か、地域医療のために存続させるか、与野党の間の駆け引きが続いていた。そうした経緯の中でスタートした組織だった。
09年の新型インフルエンザ騒動が一段落したある日、厚生労働省の事務次官から話があった。「尾身さん、大変だけれども理事長を引き受けてくれませんか」
全国に散らばる57の病院は、民間病院としてそれぞれが独自の文化で運営してきた。それを独法化し、人事や給与体系もそろえていく。地方の病院はどこも財政状況が厳しい。経営的に苦戦している病院の立て直しも急務だ。
簡単な話ではない。だからといって国からの要請を断るわけにもいかない。「あるべき地域医療を追求してもいいですか」。この点を了承してもらい、火中の栗を拾うことになった。
就任前後、東京に全病院長を招集した。地域医療への思い、そして進むべき方向性について「施政方針」として伝えたかったからだ。
内容にはおおむね賛同してもらった。しかし、いざ改革となると反発にあう。政治家を通じて現状維持を求める陳情もしばしばあった。
発足から6年、ようやく地域医療の担い手として一つにまとまりかけた頃合いに、新型コロナが現れた。
100年に1度の国難である。医療系独法に求められる公共性と、私がコロナ分科会会長であることを考えると、JCHOは何としてでも国や自治体の要請に応えなければならない。
平時は病院長らと意見交換し、重要な意思決定をしてきたが、この時ばかりは強い指示を出した。現場も十分わかってくれた。
国からの正式な要請以前からコロナ患者の受け入れや、JCHO以外の病院への看護師派遣など、できる限り実施してきた。
さらに、21年夏、東京五輪が無観客で開催されるなか、官邸からJCHOの都内5病院のうち、1つをコロナ専用病院にするよう要請が出た。
短期間に全ての入院患者を退院・転院させる大変さは、医療人なら誰でもわかる。
それでも、東京城東病院をコロナ専用病院にした。日本では例外的なことだった。
コロナという前代未聞の危機に、医師、看護師らは身を粉にして奮闘してきた。だがそうしたことには一切目を向けない批判だった。
職員から「ひどすぎる。何とかしてほしい」との声が相次いだ。件の雑誌の出版社に訂正記事を求めて抗議したが反応はなかった。
その後、しばらくの間、SNSなどで「ぼったくり批判」が続いた。
(結核予防会理事長)
【図・写真】コロナ禍の際、地域医療機能推進機構の理事長を務めていた
尾身茂(23) 20年ぶりの日本 すぐに新型インフル対策 橋下・井戸両知事とも面談(私の履歴書)[2025/03/24 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1313文字 PDF有 書誌情報]
2009年2月、世界保健機関(WHO)西太平洋事務局での生活を終え、マニラから帰国した。20年ぶりの日本である。
春から母校の自治医科大において公衆衛生を教えることになった。入学式に「医療の谷間へ灯をともす」の校歌を聞くと目頭が緩んだ。
新たな生活がスタートしたのもつかの間、4月の終わりに麻生太郎首相から1通の手紙をもらった。新型インフルエンザ対策の諮問委員会を立ち上げるので、その委員長に就いてほしいとの内容だ。
09年初め、メキシコで始まった豚インフルエンザ由来の新型インフルエンザは、4月に入ると感染力を増し世界に流行が広がっていた。
日本も成田空港などで水際作戦を実施、ウイルスの流入を阻もうとしていた。専門家5人が政府へ対策のアドバイスをすることになった。
帰国してから2カ月ほどしかたっていない。あまりのタイミングの「良さ」に悪友からは「おまえが新型インフルエンザを連れてきたのではないか」と言われた。
実は08年秋、日本を訪れ、新興感染症に関して関西で講演する機会があった。そのとき、大阪の橋下徹知事と兵庫の井戸敏三知事と面談した際、両知事から「パンデミック(世界的大流行)インフルエンザが起きた時、まず何をするべきか」と質された。
感染症対策のバイブルともいえる1枚のグラフを見せながら説明した。
20世紀初めのスペイン風邪のパンデミックにおける米国のフィラデルフィアとセントルイス両都市の死亡率の推移を示したものだ。
対策をほとんどとらなかったフィラデルフィアは流行開始とともに死者数が一気に増えた。一方、集会の制限や学級閉鎖などを行ったセントルイスは死亡者数をかなり低く抑えられた。
ワクチンのない状況下で死者数を抑えるには、人と人との接触を避けることが必須であることを一目瞭然に示したものである。
偶然にも両知事と面談してからおよそ半年後、新型インフルエンザの国内感染が大阪と兵庫で始まった。2人の知事は広範な小中高の休校に踏み切った。
後に橋下さんからは、あの時の1枚のグラフが大いに参考になったと教えてもらった。
日本では、大阪、兵庫を襲った第1波の後、第2波が続いたが、遺伝子分析によれば、第1波の原因ウイルスはその時点で駆逐されたことが分かった。これは感染症の歴史上、極めてまれなことだった。
新型インフルエンザによる死亡者数や社会・経済へのインパクトは、今回の新型コロナに比べると少なかった。WHOは10年8月に終息を宣言した。
新型インフルエンザを巡ってはその後、日本学術会議の金沢一郎会長を座長とする対策総括会議が厚労省にできた。検証作業は次なるパンデミックに備える上でとても大事と思う。
ここでは医療情報のデジタル化や、PCR検査体制の強化、国と専門家の役割分担の明確化などが提案された。私自身も、有事における意思決定のプロセスと責任主体をはっきりさせておくことが、社会の混乱を回避するには不可欠だと力説した。
しかし残念ながら、こうした政府への提言が今回の新型コロナ禍で十分生かされることはなかった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】橋下知事(右)(当時)にパンデミック対応を説明した
尾身茂(22) 鳥インフル 3つの国際機関が連携 カンボジアで根深さを実感(私の履歴書)[2025/03/23 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1337文字 PDF有 書誌情報]
SARS(重症急性呼吸器症候群)は2003年7月に制圧された。緊張の半年間から解き放たれたかと思いきや、同年暮れには新たな脅威がアジア地域を襲った。鳥インフルエンザの流行である。
H5N1型という毒性の強いインフルエンザウイルスに鳥が感染し、まさに文字通りバタバタと死んでいく。濃厚な接触がない限り人には感染しないものの、ひとたび感染してしまうと致死率60%という、とても高い確率で命取りになることがわかっていた。
ウイルスが変異し人から人へと広がるようになれば大変なことになる。
05年1月下旬から2月上旬の旧正月を契機に、ベトナムから初めて人への感染例が報告された。にもかかわらず鳥インフルエンザの感染防止策を巡って国連食糧農業機関(FAO)や国際獣疫事務局(OIE)と、世界保健機関(WHO)との連携は必ずしもうまくはいっていなかった。
家禽(かきん)類の領域にWHOが踏み込んでくるのを、FAOもOIEもおそらく警戒したのであろう。
私は1月下旬、OIEの事務局があるパリに飛んだ。バラット事務局長と面会するためだ。
感染症対策において、人への大流行を防ぐには鳥への感染自体を防止する「川上」対策がとても重要になる。WHO側に「領空侵犯」する意図はまったくないことを説明し、互いが協力し未曽有の事態に臨みたいと力説した。
話し合いは最初、とても緊迫した雰囲気だったが、だんだんと打ち解け和んでいった。こちらの思いが伝わったのだと思う。2月下旬にベトナムのホーチミンで開くFAOとOIEによる国際会議にWHOも参加することになった。
3者による国際会議の終了後、私は05年に入って初めて鳥インフルエンザの人への感染が報告されたカンボジアの首都プノンペンに向かった。フンセン首相や保健大臣と会談するためだ。
翌日、マニラに戻る飛行機の出発時間まで時間があった。せっかくプノンペンまできたのだから、農家の裏庭で鶏が飼われている様子を見てみたくなった。WHOカンボジア事務所のスタッフに頼みカンボジア政府には内緒で、プノンペン近郊にある1軒の農家を見学に行った。
04年10月ごろ、突然300羽以上の鶏がバタバタと死に、今では3羽しか残っていないという。いったい何が起きたかわからず、途方にくれた様子が印象的だった。
空港へ向かう途中、20羽ほどの鶏を籠に入れて運ぶバイクに出くわした。車のドアを開けバイクの運転手に聞くとこれから市場に行くという。飛行機の出発時間が迫っていたが後を追うことにした。
市場では、ある女性が生きた鶏をしめ、羽毛をぎ取り、腸を引き抜き、血まで売買していた。そこにバイクの男性が鶏を引き下げ現れた。2人は夫婦であることが分かった。
カンボジアでは鳥インフルエンザが流行し、濃厚接触による人への感染も報告されていることを伝えた。2人はこの感染症についてほとんど何も知らず、こちらの問いかけに対しきょとんとしていた。
感染症の実態を知るには、現場に足を運ぶことが大切だと改めて感じた。そして鳥インフルエンザの流行が、アジア地域での生活に密着した、根の深い問題であることを痛感した。
(結核予防会理事長)
【図・写真】カンボジアの市場を見て回る筆者(右)
尾身茂(21) 制圧 初の渡航延期勧告を発動 SARSの流行、半年で終息(私の履歴書)[2025/03/22 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1324文字 PDF有 書誌情報]
未知のウイルスによる新興感染症を封じ込めるには、初動が大事である。潜伏期間はどれぐらいか、症状の出ないまま他の人にうつす可能性があるかなど、病原体の正体を突き止めていかないと、誤った戦い方をとりかねない。
SARS(重症急性呼吸器症候群)は、西太平洋地域がその発生源だったので、世界保健機関(WHO)の対策は地域事務局が中心になった。
対策本部には正規の職員以外にも、急きょ応援にかけつけてくれた各国政府の専門家も状況分析にあたった。地域での様々な「噂」の真偽を確かめる「ルーマー・サーベイランス」の専門家にも来てもらった。
ハノイ、シンガポールなどにおける感染症例を臨床的、疫学的に分析したところ、2つの特徴が明らかになった。
「感染経路は飛沫などによるもので、空気感染の可能性は少ない」。そして「他の人への感染は、発熱、せきなどの症状が出てから1、2日後に起きる」。
原因ウイルスを同定するため、日本の国立感染症研究所を中心に9カ国11研究所をネットワークで結び、解析をした。開始から1カ月足らず、当時の技術からすると極めて短期間で、中国・広東省発の新興感染症がSARSウイルスであることを突き止めた。
2003年の3月頃になると感染はますます拡大した。香港の街を歩いているだけで感染した旅行者が国に戻りウイルスを広げていることが明確になってきた。
これ以上、流行を拡大するわけにはいかない。
WHOには、感染国・地域への不要不急の渡航を控えるよう全世界に要請する「渡航延期勧告」という切り札がある。しかし、1948年の発足以来、一度も発動されたことはなかった。
私は伝家の宝刀を抜くべきかどうかで大いに悩んだ。このまま放置すればさらに多くの人命が失われる。一方、渡航延期勧告を出せば香港経済への影響は計り知れない。政治的な問題にも発展しかねない。
経済は立て直しがきく。しかし、多くの人命が失われていく状況を放置することは、WHOの使命を放棄することになる。
ジュネーブにある本部のグロ・ハーレム・ブルントラント事務局長に電話で考えを伝えた。「尾身がそう(勧告が必要と)考えるのなら、私も支持する」。
4月2日、WHOとして初の渡航延期勧告を広東省と香港を対象に発動した。
その結果だろうか。4月20日、中国政府は責任者を更迭し国際社会への情報共有にかじを切った。感染者を見つけ次第すぐに隔離するWHOの方針が全面的に実施された。
中国国内の感染者は急激に減少し、6月24日には新しい衛生相とともに北京で記者会見し、中国におけるSARS制圧を宣言した。そして翌月、世界の流行は出現から半年足らずで終息した。
SARSを契機に中国の公衆衛生、感染症対策への姿勢は大きく変わったように思う。WHOへの関与も強まっていった。
中国は、ブルントラント氏の次の次のWHO事務局長候補に香港出身のマーガレット・チャン氏を決めた。SARS流行時、香港の感染対策の責任者で私とは同志の関係だった。
そしてこの事務局長選挙で私はマーガレット・チャン氏に敗れた。何か因縁めいたものを感じてならない。
(結核予防会理事長)
【図・写真】タイム誌にインタビューが載った
尾身茂(20) SARS 感染、世界中を揺るがす 腰の重い中国政府、悩ましく(私の履歴書)[2025/03/21 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1331文字 PDF有 書誌情報]
21世紀に入って最初に世界を揺るがした新興感染症が、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)である。日本は大流行を免れたが、世界をみれば、30もの国や地域で半年間に8000人を超える症例と800人近い死亡例が報告された。
事の始まりは03年2月初旬に遡る。中国広東省地域で致死率の高い原因不明の呼吸器感染症が流行しているとの情報が、複数の非公式な経路から世界保健機関(WHO)西太平洋事務局にもたらされた。100人以上が死亡した可能性があるという。
早速、中国政府に照会した。これまでなかったタイプの肺炎が流行している点は認めたが、患者数や死者数、状況認識において、われわれが得た情報とは食い違っていた。
「WHOの専門チームを広東省、香港に派遣したい」「広東省における疫学情報などをオープンにしてほしい」。2月20日に地域事務局長の私の名前で中国政府に正式な文書を送った。
その後、WHOの担当官を北京に派遣、2週間かけて当局との交渉にあたらせた。しかし有益な情報を得ることはできず、専門チームの広東省への受け入れも認められなかった。
後日振り返れば、SARSウイルスが広東省から香港に伝播(でんぱ)したのが2月21日。その後、香港からハノイ、シンガポールなどへと世界各地に広がった。
最初に照会した段階で中国政府がきちんと情報を提供してくれていれば、その後の展開は違ったものになっていただろう。
3月に入ると中国以外でも事態は深刻になっていく。当時、私の下で感染対策課長をしていた押谷仁さんはベトナムでの感染対策にあたっていた。
幸い彼は難を逃れたが、同じ場所で働いていた同僚のイタリア人医師、ウルバニ氏はSARSに感染し、命を落とした。
3月12日、WHOはSARSに関する緊急警報を発出し、加盟国の保健医療・公衆衛生関係者に注意を喚起した。しかし、それでも事態は収まらなかった。
カナダのトロントにおいて香港旅行から帰国した2人の感染を確認。その後、治療にあたった病院で感染が広がったことで、一気に緊張が高まった。グローバル化時代には、航空機を介し感染はあっという間に世界中に伝播する。
何とか事態を打開しなければならない。
3月20日、私は香港に飛び中国の張文康衛生相(日本の厚生相にあたる)に直談判することにした。面会は彼の泊まるホテルで通訳を含めた3人だけで行った。
江沢民元国家主席の主治医という異色の経歴をもつ張氏とは旧知の間柄だった。私は「詳細な情報の迅速かつ定期的な提供と、WHO調査団の受け入れを中国が合意してくれないと、さらに多くの命が失われる。その上、国際社会の中国への信頼も損なわれるだろう」と、強い口調で述べた。
誠実な張氏は時折、困った顔をしながらじっと聞き入ってくれた。しばらく間を置いて、静かにこう口にした。「医師として尾身さんの言うことは100%理解できる」
しかし、明確な約束は得られなかった。何かとてつもなく大きなものを背負わされているように見えた。
感染症対策は時にその国の政治という壁にぶつかる。そのたびに張氏の苦渋に満ちた表情を思い出す。
(結核予防会理事長)
【図・写真】SARS流行時の記者会見(左が筆者)
尾身茂(19) 地域事務局長選 現職ハン氏の3選阻む 良きリーダー、友人関係長く(私の履歴書)[2025/03/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1349文字 PDF有 書誌情報]
1997年9月、オーストラリアのシドニーで世界保健機関(WHO)地域委員会が開催された。厚生大臣など各国・地域の保健関係者が一堂に集まる国際会議だ。
日本代表団のトップを務める厚生省幹部から連絡が入った。「2人だけで話があるので来て下さい」
夕方、その幹部が泊まるホテルの部屋を訪ねた。すると今後の身の振り方を尋ねてきた。「尾身さんはこれからどうしたいのですか?」
のちにわかるが「来年の地域事務局長選挙に立つ気があるか」と聞きたかったようだ。そうとは知らず、私は西太平洋地域のポリオ根絶が順調に進んでいたこともあり「できるなら次はジュネーブ(本部)で全世界のポリオ根絶に関わりたい」と答えた。本心だった。
それから半年後の98年3月、マニラの自宅に突然、厚生省から電話がかかってきた。明日、帰国してほしいという。相手の声には緊迫感があった。半年後の9月に事務局長選挙が控えている。要件はこれに関することだと直感した。
地域事務局長の任期は1期5年だ。今は2選までというルールになったが、当時のハン・サンテ氏はこれに縛られず3選も可能だった。99年2月の新体制に向け、三たび登板する意欲は満々だった。
ハン氏は「プリンシプル(根本的な原則)」を順守したマネジメントを信奉していた。加盟国からの信頼も厚かった。英語も極めて堪能で、プレゼンテーション、受け答えは説得力があった。私自身も多くのことを学んだ。
ところが2期目中盤以降、70歳を超えたころから、そのマネジメントが感情的となり合理性を欠くことがしばしば見られるようになった。
日本政府は3選を阻止すべく、地域事務局長選挙に立候補するよう、私に打診してきたのだ。
ハン氏は2度も選挙に勝利している。3選に向け用意周到であることもわかっていた。選挙では現職が圧倒的に有利。勝てる保証はない。
しかし「ここはやるしかない」と覚悟した。対立候補が職場での上司ということもあり、WHOを急きょ辞職することにした。
選挙は約半年間続く長期戦だ。加盟各国を日本政府の応援団とともに回り、これからの地域保健の基本方針などを説明し、支持を仰ぐ。
ついに選挙の日が来た。
フィリピンの地元メディアから「日韓対決」と称された地域事務局長選挙は僅か1票差で日本が勝利した。最後まで態度を決めかねていたモンゴルが日本に1票を投じてくれたのだ。
日本が韓国を占領した際、日本名を持っていたハン氏は、投票結果の発表直後にコメントを求められ、流ちょうな英語で「わたくしハンは日本帝国の臣民ゆえに日本帝国の意志に従います」と語った。
この発言にその場にいた出席者、特に私を含めた日本代表団はみな凍り付いた。
その発言の数時間後。ハン事務局長主催の晩さん会の挨拶では一転、こう述べた。「私には2人のベスト・スチューデント(教え子)がいた。一人がロマルデスくん。最近フィリピンの厚生大臣になった。そしてもう一人が尾身くん。彼には選挙の勝ち方まで教えてしまった」
この発言に場内は笑いの渦に巻き込まれた。あるべきリーダー像を最後に示してくれた。ハン氏と私との交友関係は彼がコロナ禍の期間中に亡くなるまで続いた。
(結核予防会理事長)
【図・写真】選挙後のハン地域事務局長と(右が筆者)
尾身茂(18) 国際政治 中国の一人っ子政策、壁に 赴任10年、ポリオ根絶を宣言(私の履歴書)[2025/03/19 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1350文字 PDF有 書誌情報]
ポリオ根絶の戦術はとてもシンプルだ。
第一に疑われる症例のサーベイランス(調査監視)。すべて報告してもらい、採取した便のウイルスを検査する。そして「ポリオ接種予防週間」を設け、5歳以下の9割以上に経口ワクチンを投与する。
しかし、言うは易く行うは難し。政治的、社会的、文化的な課題が立ちはだかった。
まずは中国の「一人っ子政策」。ワクチン接種のためには予防接種台帳を準備する必要がある。しかし、台帳には第1子のみが登録される。予防接種を受けていない第2子、第3子が中国の患者の9割以上を占めていた。
世界保健機関(WHO)が中国に対し「一人っ子政策」という国策を批判するような内政干渉はできない。政治的に微妙な問題だった。
ここは中国政府と率直に話し合うしか方法がないと思った。1993年秋、北京に赴き衛生相に直接面会することにした。「一人っ子政策」という言葉は絶対に使わないと決めていた。
第2子以降にポリオの患者が集中していること、この問題を解決しないと中国における根絶は難しいと説明、「速やかに対処していただきたい」とお願いした。大臣は静かに聞いていたが「少し時間をください」とのことだった。
1、2週間後、中国衛生省から連絡が入った。近く全地方政府の幹部を集めたポリオの会議を北京で開くから参加してほしいという。
9月末、人民大会堂での会議は熱気にあふれていた。私のプレゼンテーションの後、件の衛生相が登場、「あしたからすべての子どもにワクチンを接種してください」と宣言した。
第2子、第3子を予防接種台帳に登録してもおとがめなしということを宣言したも同然だ。これで中国の根絶はうまくいくだろうと確信した。
この冬、中国は約1週間の特別予防接種期間を設け、全土で約8000万人の子どもにポリオワクチンを投与した。公衆衛生史上、空前絶後の出来事だった。
政治的な問題は中国以外にもあった。西太平洋地域事務局のあるフィリピンでは当時、ミンダナオ島で独立を求めたグループとの紛争が起きており、ワクチン接種どころではなかった。
ラモス大統領に直談判し、予防接種のための「休戦協定」を提案。その期間中は双方ともが武器を置き、軍に守られた保健師たちが子どもたちにワクチンを届けた。
96年ごろになると、患者の報告はベトナムとカンボジアの「メコンデルタ」に絞られてきた。川を小舟で移動しながら生活する「浮遊集落」の存在が、衛生上の問題を生みウイルスの撲滅を阻んでいたのだ。
少々、手荒な戦略をとった。「浮遊集落」に住む子どもたちを一人も逃がさぬよう、接種チームが川の上流と下流の両方から挟み撃ち。両岸にも配置し一網打尽作戦を遂行した。
こうした各国の協力、努力の結果、97年3月19日、カンボジアから報告のあった15カ月の女児を最後に、西太平洋地域からのポリオ患者の症例報告はぴたりとやんだ。
ただ、本当に根絶を意味するかどうかはまた別の問題。ゼロの証明は難しい。
その後3年間、サーベイランスを継続、疑わしいすべての症例を検査し、ポリオのウイルスは検知されなかった。
2000年10月29日、ついに西太平洋地域のポリオ根絶が宣言された。
(結核予防会理事長)
【図・写真】中国でのポリオ予防接種(左が筆者)
尾身茂(17) ポリオ根絶へ マニラWHO地域本部に 30億円のワクチン費集めに苦心(私の履歴書)[2025/03/18 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1382文字 PDF有 書誌情報]
チャンスは突然やってきた。入省後1年もたたないある日の夕方、医系人事を担当する厚生科学課長に突然、呼ばれた。
世界保健機関(WHO)にはスイス・ジュネーブの本部以外に、6つの地域事務局がある。アジア・太平洋地域を管轄する西太平洋地域事務局に2つの空席ポストが出たという。
一つは課長職(P5)で地域事務局長の秘書官的な仕事をする。もう一つが課長補佐(P4)でポリオの根絶を担当する。どちらに応募するか聞かれた。「考える時間を下さい」と返答すると「今すぐ決めるように」と言われた。
課長職の方が確かに格好はいい。給料も高い。しかし、やりがいのあるのはP4の方だと直感、「ポリオでお願いします」と答えた。
もしあのときP5を選択していたら、おそらく2年ほどで日本に帰国することになり、20年間、WHOで働くことはなかったと思う。
1990年9月、フィリピンの首都マニラに本部のある西太平洋地域事務局に赴任した。すぐに韓国出身のハン・サンテ地域事務局長から最初の指示が出た。
「2000年までにポリオを根絶したい。ドクター尾身には来春、東京で国際会議を開催してほしい」
ポリオ根絶にはワクチン購入費など約30億円が必要だった。当時、日本は経済バブルのただ中。アジアナンバー1の経済大国として中国、カンボジア、ラオス、ベトナムなど西太平洋地域の流行国にワクチンを無償で提供しなければならない。東京で会議を開けば相当な資金が集まる。ハン地域事務局長はそう踏んでいたのだろう。
国際会議を開催するといってもノウハウも何も持ち合わせない。天然痘根絶事業で指導的役割を果たした蟻田功博士に助言を求めた。
91年4月、東京・市ケ谷での国際会議の開催になんとかこぎ着けた。世界各国からポリオの専門家や政府関係者が参加してくれるか、当日まで不安だった。
会議そのものは成功裏に終わった。しかし、肝心のお金は一切集まらなかった。ポリオ根絶の意義にはみな理解を示したが、要は総論賛成、各論反対である。発展途上国での根絶など荒唐無稽なプロジェクトと映ったようだ。
30億円の資金集めに一条の光が差し込んだのは、92年10月に中国・北京で開いた3回目の会議だった。国際ロータリークラブが1億5000万円の資金提供を申し出てくれたのだ。
ただ1つ条件があった。中国では患者の多くが4歳以下であることを理由に、予防接種の年齢を5歳以下から4歳以下に引き下げてほしいということだった。
ポリオワクチンの「5歳ルール」はWHO全体の方針だった。中国だけ例外というわけにはいかないと、ジュネーブから来ていた担当官は変更を認めない。
私は彼にトイレに行くふりをして中座するよう促した。その間、「独断」で「引き下げ」了承を取り付けた。このことが後の資金集めの呼び水になった。
当時、ワクチンは消耗品ゆえに政府開発援助(ODA)の対象にならないと日本政府は資金援助を渋っていた。「ワクチンは消耗品どころか、その効果は一生続く」と私がしつこく説明すると、ようやく分かってもらえた。
93年8月からの細川護熙政権時代、ポリオワクチンの調達費用として7億円の対中無償資金援助が決まった。
マニラ着任から3年弱。やっとポリオ根絶への手ごたえを感じ始めた。
(結核予防会理事長)
【図・写真】WHO西太平洋地域委員会の様子
尾身茂(16) WHO志願 母校で博士号取得目指す 39歳で医学博士、厚生省へ(私の履歴書)[2025/03/17 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1275文字 PDF有 書誌情報]
自治医科大学卒業生に課せられた9年間の「義務」も終盤にさしかかると、その後の身の振り方を考えるようになった。
私の場合、都立病院に残り臨床医として働くか、あるいは医系技官として国や東京都の医療行政に関わるか、2つの選択肢があった。
年齢も37歳とそろそろ人生の後半の生き方を考える時期だった。救急対応など医師の仕事は緊迫感があり、やりがいがあった。
しかし、だんだん慣れてくると、このまま続けて一生を終わるのかという気持ちも芽生えてくる。
そもそも外交官になる夢を諦めて医師になった経緯がある。その夢を完全に忘れ去っていたわけではなかったと思う。
離島での勤務を終え、都立病院に勤務していた頃、高校時代に共に米国に留学し、その後、国連児童基金(ユニセフ)で仕事をしていた浦元義照くんから電話をもらった。赴任地のインドネシアから一時帰国しているという。
私の昔の姿をよく知っていた彼は、「お前のような性格で、医師免許もあり、英語もできるやつは、WHO(世界保健機関)で働いたらどうだ。予防接種などを普及させれば世界中で何千万人もの命を救えるぞ」。
この言葉に私のやんちゃ心が反応した。
しかし、どうすればWHOへ就職できるのか。資料を取り寄せたり、英米の大使館に足を運んだりして調べた。
どうやら高度な専門性が必須のようだ。米国のハーバード大やジョンズ・ホプキンス大といった公衆衛生の名だたる大学で修士をとるか、あるいは世界的に認められている日本の研究所で博士(PhD)をとる必要がある。
幸い、母校の自治医科大の予防生態学教室(現ウイルス学教室)が、B型肝炎に関する研究でWHOの協力センターとして指定されていた。思い切って訪ねてみた。
研究室を率いる真弓忠教授に「先生、WHOに行きたいので、博士号獲得のための指導をお願いしたい」と申し出た。「実験室の仕事は細かい手技の連続で正確に行うことが最低条件だ。しかも給料は都立病院時代よりかなり少なくなる。覚悟があるなら応援しよう」と承諾していただいた。
学生時代、この教室は夜中でも電気が消えることがないので、研究に無縁だった私のような学生たちは「不夜城」と呼んでいた。まさか卒業後10年近くたってからここに籠もることになろうとは夢にも思わなかった。
B型肝炎ウイルスの塩基配列を決めるのが日々の主な仕事だった。シーケンサーと呼ぶ解析装置がある今だとあっという間に済む作業も、基本的には手仕事。地味でとにかく時間を要する。
大雑把(おおざっぱ)な性格の私は、実験室におけるこうしたきめの細かい仕事は不得手で、時々不整脈に悩まされた。
真弓教授、岡本宏明先生による丁寧な指導のおかげで、40歳を前にして無事に医学博士号を取得した。
さらに真弓教授からのWHOに入るには厚生省を経由した方がいいとのアドバイスに従い、医系技官の中途採用試験を受けた。
1989年春、厚生省に入省、短期間だったが医療課に籍を置くことになった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】「不夜城」真弓研究室の面々 (右から2人目が筆者)
尾身茂(15) へき地医療 伊豆諸島・利島に赴任 人捜し、葬祭…貴重な経験(私の履歴書)[2025/03/16 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1351文字 PDF有 書誌情報]
1978年、自治医科大学を卒業、無事に医師の国家試験に合格した。
入学金も6年間の授業料も無料。その代わりに「勤務義務」が待っていた。私の場合、資金提供者である東京都が指定する病院や地域で計9年間、医師として働くことが決まっていた。
まず、最初の3年、研修医として勤務したのが都立墨東病院だ。今はすっかり新しくなったが、当時は国鉄の錦糸町駅を降り、飲み屋街を通ってたどり着く病院だった。いわゆる下町でお世辞にも綺麗(きれい)とはいえない。雑多な雰囲気は性に合った。
他大学の医学部出身の若手医師とは違い、伊豆諸島での勤務が予定されていた。外科、小児科、産科、麻酔科などの複数の診療科を3カ月ごとに回った。よくある病気や、初期対応を誤ると命取りになる病気を中心に集中的に学んだ。いわゆる総合診療医の走りだ。
墨東病院は場所柄なのか、けがや虫垂炎、熱傷など、小児の場合は熱発とか発疹、ぜんそくや腸重積などの急患が多かった。
とにかく多くの患者をみたいという気持ちがあった。当直でなくても家に帰らず仲間とマージャンをやりながら急患を待った。昨今の「働き方改革」とは無縁の医師生活だった。
そして最初の赴任先となった離島が、東京都の利島(としま)だ。伊豆諸島北部、大島の南に位置する人口300人の無医村である。妻と4歳の長男の3人が赴任するだけで人口が1%増えることになる。
都が用意したヘリコプターで島の小さなヘリポートに着陸した。村長をはじめ村の職員が温かく迎えてくれた。
医師1人、看護師1人だが、毎日の外来は7人前後。都立がん検診センターで学んだ胃の内視鏡検査を40歳以上の村民全員に行った。
午後の余った時間は読書にあてた。医学書のほかにダグ・ハマーショルド第2代国連事務総長の「道しるべ」や、精神科医の神谷美恵子による「生きがいについて」などを熟読した。
私の肩書は「国保診療所所長」。この村では村長につぐ役職らしい。この「利島ナンバー2」としての仕事が結構忙しく面白かった。
島には船が週2回やって来る。ある日、たまに地元の人と酒を交わす民宿に見目麗しい女性が現れた。話そうにもとても話しかけられる雰囲気ではなかった。
翌日、夜になっても帰ってこない。急きょ、村長をトップに対策本部が立ち上がった。私と駐在する警察官が副本部長を任じられた。
「みんな心配しています、私たちの声を聞いたら出てきてください」。丸2日、昼夜を問わず皆で捜索した。
3日目の早朝、警察官から電話があり、例の女性を診療所に連れてくるという。女性はげっそりした様子だった。
すぐに血圧を測り、脈をとった。かなりの脱水状態だった。点滴をゆっくり始めた。「死ぬつもりで島に来たが、皆さんの『心配しているよ』という声を聞いて、迷惑をかけられないと思い、ここに来た」という。
在任中、島で亡くなる人も何人かいた。地元の風習で1週間かけて各家をまわる。死亡診断書を書いた手前、熱海から来てもらったお坊さんとずっと一緒に付き添った。
小学校の入学式では来賓の挨拶もさせられた。
都内の大病院勤務では考えられない、医師として貴重な体験をさせてもらった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】最初に勤務した無医村の利島にて(右から2人目が筆者)
尾身茂(14) 「社長」 書店の店主に薫陶受ける 思想、宗教…人生論が導きに(私の履歴書)[2025/03/15 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1327文字 PDF有 書誌情報]
学生には本が、そして大学には書店が欠かせない。
1972年の自治医科大学発足にあわせて学内にできたのが「大学書房」だ。
ここの店主、金田英雄さんは、6年間にわたる医学生生活において最も影響を受けた人物の一人。金田家は地元の大地主でその長男として生まれた。年齢は私のひと回り上で皆「社長」と呼んでいた。
宇都宮大学農学部を卒業、米国への留学経験もあった。無類の読書家で農業を営みながら、いつか、本屋を経営したいという思いがあったようだ。そんな夢が自治医科大の新設を契機にかなった。
数学の天才、無頼派文学青年、資本論をドイツ語で読む変人、楽器の名人など。個性派ぞろい1期生が暮らす学生寮に見知らぬオヤジが毎日のようにあらわれ、議論を吹っ掛けてくる。年齢こそ違ったがこの大学の「同級生」という気持ちがあったのだろう。どういうわけか「標的」になったのは私が多かった。
大学から車で20分ほどのところに金田家はあった。徐々にこの人に興味を覚えるようになり、大学の講義もそっちのけで毎日のようにお邪魔するようになった。夜遅く押しかけ、徹夜のマージャンになることもしばしば。夜が明けると、奥さんがおいしいみそ汁と朝ご飯を用意してくれた。
進級試験の直前には深夜、「腹が減っては戦はできない」と言って、寮生全員が食べられるほどのおしるこを大きな鍋で持ってきた。社長はともかく与えることが好きだった。
マージャンがひとくぎりつくと、人生談議が始まる。社長は日々、読書し思索し導いた思いを披露してくれた。
「40歳まで迷わない人は馬鹿だ。そして40歳過ぎてから迷うのも馬鹿だ」。40歳を前に世界保健機関(WHO)に進もうと決心できたのも、この言葉の影響が大きかったと思う。
もう一つ忘れられないのが「得手に帆を揚げよ」。最近、中高生や大学生を相手に講演する時は、必ず紹介するようにしている。人にはみなそれぞれの個性がある。若いうちは色々試し、自分の個性を見いだすことこそ仕事である。
社長は吉本隆明が好きだった。その影響もあってか、彼の書いた親鸞に関する著作をかなり読んだ。
とくに感銘を受けたのが「最後の親鸞」。自分は不完全だと自覚するリアリティー。親鸞は宗教の枠を出て、思想家になった。
また、イザヤ・ベンダサンのペンネームで「日本人とユダヤ人」を記した山本七平による様々なキリスト教関係の本も紹介してもらった。
社長は胃がんを患い、2007年3月に亡くなった。亡くなる数日前、自宅に見舞いに行き、ベッドに横たわる社長と2人だけで2時間ほど最後の会話を交わした。
彼も私も特定の宗派に属するわけではない。しかし、宗教について多く語ってきたので思い切って聞いてみた。「社長、神様、仏様はいますか」
目を閉じながら安らかな表情でひとこと「いるよ」。
人生とは複雑で深いもの。悲しみもあれば喜びもある。平板なものでは決してない。物事の成功、失敗や、人の評判だけを気にするのではなく、右目で近くを、左目で遠くを見つめよう。
社長からそう教わった気がする。私にとってかけがえのない自治医科大「教養部」だった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】自治医科大時代に世話になった金田夫妻
尾身茂(13) 筏下りと訪中 夏休みに冒険、新潟港まで 北京大の学生と芸術論争(私の履歴書)[2025/03/14 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1367文字 PDF有 書誌情報]
自治医科大生時代の忘れがたい思い出を2つ、紹介させていただく。
1973年夏、医学部2年の時に高校時代の友人らと10日間かけて、千曲川、更に本流の信濃川を下り、最後は新潟港に出る冒険旅行をした。長野県篠ノ井から、手作りの8畳大の筏(いかだ)に乗ってである。
この奇妙な学生集団の噂を聞きつけた信濃毎日新聞の記者が途中、オートバイに乗って取材に来た。大きな記事が地元紙を飾った。
日中は川を下る。特に千曲川の流れは急峻(きゅうしゅん)で、筏は上下左右に大きく揺れ、川に突き飛ばされることもあった。
日が暮れると危険なので、筏を川岸に停留させ、陸に上がる。3グループに分かれ食堂、銭湯、寝床を探す。私の担当は寝る場所の確保だ。
たまたま通りがかった地元の人が近くに寺があると教えてくれた。行くと立派な佇(たたず)まいだった。
「一晩だけ泊めてもらえませんか。軒下でも構いません」。住職さんは「風呂を浴びて食事でもしてゆっくり休んでいきなさい」。甘えさせてもらった。
翌朝、頭に何かがカツンとあたり目を覚ました。朝陽が差し込む雨戸の隙間を覗(のぞ)くと老婦人が手を合わせていた。そこは本堂だった。畳の上にはお賽銭(さいせん)が転がっていた。申し訳が立たないので婦人が去るまで気づかれないよう息を殺した。
「筏の大冒険」から半年余りたった74年3月。2年前に国交を回復したばかりの中国を2週間、訪問した。自治医大生16人の訪中団を結成し、団長を務めた。
きっかけは謎の国を見てみたいという好奇心からだった。人づてに紹介してもらった中国通の政治家に相談するとあっけなく実現した。
鍼(はり)麻酔や熱傷治療といった中国の医療を学びたいとの訪問理由がよかったようだ。国交回復で友好の機運が盛り上がる中、日本の医師の卵を招くのは悪いことではないと判断したのかもしれない。
3月16日の早朝、香港の九龍駅を離れ、国境の駅、羅湖駅にたどり着いた。ここには英国の国旗が翻るが、川にかかった橋を歩いて渡ると、中国の国旗、そして銃を持つ解放軍の行列が見えた。
どの都市でも地元の共産党から熱烈な歓迎を受けた。最初に覚えた言葉が「ピーリンピーコウ(批林批孔)」。時代は毛沢東による文化大革命の真っただ中、林彪と孔子を批判するこの言葉を何度も聞かされた。
上海では発電所に勤めるという家族と面談した。「解放前に比べると今は本当に幸せだ」。感極まった様子でこう話す彼らの表情がとても印象的だった。
最後の訪問地となった北京では北京大学の医学部生たちと交流した。和やかな雰囲気で対話が進む中、ひょんなことから芸術の話におよび、一転、緊迫した事態に。
北京大生は「芸術は革命のため、人民のためにある」という。対しわが方の一人が「それはおかしい。芸術は芸術のためにある」と主張。互いに譲らない。
困った私は咄嗟(とっさ)に「両国の置かれた状況の違いを考えれば、違う考えがあってもいい」と発言、何となくその場が収まった。
後に、ポリオなどの感染症対策で頻繁に中国を訪ねることになる。そのたびに初めて訪ねた近代化前の中国、人民服を纏(まと)った人々の姿を思い出す。この半世紀、この国の変貌のすさまじさを実感する。
(結核予防会理事長)
【図・写真】自作の筏に乗って信濃川を下った
尾身茂(12) 法から医へ 再受験で父と大げんか 新設の自治医科大学へ(私の履歴書)[2025/03/13 日本経済新聞 朝刊 48ページ 1393文字 PDF有 書誌情報]
普段、父から叱られた記憶はなかった。しかし、この時ばかりは違った。「慶応大をやめて医学部に入り直し、医者になる」。こう告げると烈火のごとく怒られ、文字通り取っ組み合いになった。
当時、父が勤務していた日本鋼管(現JFEスチール)の幹部には、慶応大出身者が多かったようだ。中学しか出ておらず「長」の名の付くポストとは無縁であった父にしてみれば、慶応大を卒業し日本鋼管のような大企業に就職すれば何が不足か? そんな思いだっただろう。
「もし医学部が駄目だったら、どうするつもりだ」と聞かれ「どんな仕事をしてでも自分の力でやっていく」。若気の至りで済ませるには無鉄砲すぎる。勘当もありうる状況だったが、私の気持ちを察していたか、太っ腹の母が「茂の好きなようにさせたら」と父を説得してくれた。
日本の中等教育や受験制度においては、「理系から文系へ」に比べ、数学や物理などが重視される理系への変更はハードルが高い。医学部となるとなおさらだ。「おまえみたいな文系人間が今更医学部に受かるわけがない」。父の言い分はもっともだった。
東京・御茶ノ水にある駿台予備校に通うことに決めたのだが、入るのに試験があるとは知らなかった。最もレベルが高いとされる午前部理科系コースを受験したが、高校時代に数学3、物理などあまり勉強しておらず、そのコースの一番下位のクラスにかろうじて滑り込むことができた。
予備校での1年ほどまじめに勉強したことはない。全ての授業に出席した。成績は徐々に良くなり、受験の間際には上位のクラスに上がった。
1971年11月ごろ、朝日新聞の1面に「地域医療を担う医師を養成する自治医科大学という新しい医科系大学が来春開設され、一期生を募集する」との記事が載った。
入学者全員は卒業後一定の期間、無医村を含む地域医療に貢献することを条件に、入学金や学費が無料だ。
両親にこれ以上、経済的な迷惑をかけるわけにはいかなかった。地域医療という言葉も、悩める心にはどこか魅力的だった。自治医科大を断然第1志望と決めた。
自治医科大は当時、日本の医療の谷間ともいえた「無医村問題」を解消すべく設立された。形式上は私立大学だが、自治省(現総務省)が中心になって設立した大学で、国公立の医学部よりはるかに公的性格が強い。
選抜は都道府県ごと2、3人の枠で行われ、1学年は約100人。私は出身高校の所在地である東京都の試験を受けた。3人枠のところ450人以上が受験した。倍率150倍ほどだった。
一期生という魅力もあってか、他の国公立の医学部や、東大の理一、理二、京大の理学部などを蹴って入学した人もかなりいた。
キャンパスは栃木県南河内町(現下野市)にある。畜産講習所の跡地ということで、国鉄の線路沿いに細長くそして広大だった。
入学当初は1、2年生が学ぶ校舎と学生寮、体育館の建物しかない。医大に必須の大学病院も建設中だった。
後からわかったことなのだが、国の肝煎りということなのだろう。将来日本の医学界を担う優秀で気鋭の教授、助教授が全国から集められた。
「医療の谷間へ 灯をともす……」。そんなフレーズがある校歌も、学生が作詞、作曲したものだ。先生と学生が互いに信頼を寄せ、新しい医大を作り上げていく。自由闊達な雰囲気だった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】内村祐之氏の本と出合い、医師を志した
尾身茂(11) 青春の彷徨 大学紛争で東大入試中止 慶大法学部に入るも退学(私の履歴書)[2025/03/12 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1267文字 PDF有 書誌情報]
1968年夏、1年ぶりに日本に帰ってきた。18歳の若者にとってまぶしかったアメリカという「天然色」の世界は一転、「灰色」の世界に転じた。日本中が学園紛争で騒然としていたのだ。
高校3年の時にAFS制度を使って米留学すると、地元の公立高校から卒業証書をもらえることになっている。これで日本の大学の受験資格はある。
とりあえず高校に帰国の挨拶に赴いた。東京教育大学付属駒場高校はとにかく自由な校風である。「きみの同級生はみな卒業している。もう学校に来る必要はない」と先生に言われた。
それからは家で受験勉強に専念した。ひとあし先に東大へ進学した友人から、これさえあれば受かると参考書や問題集をゆずり受けた。
将来、外交官になるということであれば、やはり東大の法学部がベストだろう。文科一類を目指すことにした。
ところがである。11月に入り高校の剣道部の仲間で現役で東大に合格、後に大蔵官僚になった友人から電話をもらった。「尾身、来春の東大入試がなくなるぞ。一度、本郷キャンパスを見に来い」
本郷3丁目の喫茶店で待ち合わせ、初めて東大本郷キャンパスに足を運んだ。赤門から入ったのか、安田講堂が見える正門から入ったかは忘れたが、目の当たりにしたのが大学紛争の現実だった。
「中革」や「革マル」と書いたヘルメットをかぶり、タオルで顔半分を覆い隠している。ゲバ棒を持ち、たき火をしながら暖をとっていた。学ぶ学生の姿はそこにはなかった。
この日を境に受験勉強する気が一気にうせてしまった。もう1年浪人する選択肢もあったが、それだと「2浪」扱いになる。「東大の入試がないのだから仕方ない」。どこか「免罪符」を得た気持ちにもなった。
69年春、慶応大法学部法律学科に入学した。しかし、しばらくして学生運動の波がここにも寄せてきた。ストライキによって講義はしばしば休講になった。
「反権力」「反体制」が声高に叫ばれるなか、「外交官になりたい」と口にしようものなら、「人民の敵」といわれかねない雰囲気だった。悩みが深くなった。青春の彷徨(ほうこう)の始まりである。
デモに参加する気分にもなれず、さりとて「ノンポリ」に徹し勉学に打ち込むこともできない。
渋谷にある老舗の「大盛堂書店」に毎日のように足を運び、哲学書や宗教本を立ち読みした。
そこで偶然出合ったのが内村祐之著「わが歩みし精神医学の道」だった。キリスト教思想家として有名な内村鑑三の長男で東大医学部教授だった著者の自伝は、なぜか悩みに悩んでいた私の心の奥深くに突き刺さった。
どちらかといえば文系人間で医学や医者など夢想だにしなかった。家族や親戚にも医師はいない。が、この本を読むと「医学」という言葉がどこか人間的な響きをもち、自分の悩みを一挙に解決してくれる救世主に思えた。
医師や医学者になれば「人民の敵」とはいわれない。いや逆に人々から社会から喜んでもらえるだろう。
慶応大を退学し、どこかの大学の医学部に入り直そう。そう決意した。
(結核予防会理事長)
【図・写真】思い悩む学生の頃の筆者
尾身茂(10) 米留学 社会・公共性に目覚める 1年間のホームステイ経験(私の履歴書)[2025/03/11 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1336文字 PDF有 書誌情報]
高校3年の1967年夏、AFS交換留学制度で米国へ1年留学することになった。
AFSは世界の若者たちに異文化交流の機会を与えるための教育団体で、2度の世界大戦中に傷病兵の救護搬送をしたボランティア組織「American Field Service(アメリカ野戦奉仕団)」にちなんでいる。
当時、日本からは毎年100人ほどの高校生が選抜されて米国に渡った。私が向かったのはカナダに近いニューヨーク州ポツダムだ。
1ドル=360円の時代。高校生の海外旅行などは考えられなかった。
出発当日、羽田空港には家族のほか、高校の先生、同級生らが見送りにきてくれた。母方の叔父は「尾身茂くん、がんばれ!」と書かれた横断幕を掲げていた。まるで出征さながらの光景である。
ポツダムはあのポツダム宣言が出されたドイツの町からの移民が作った大学町だ。インドの文化や歴史を研究するドイツ系米国人のギューリック教授宅に1年間ホームステイさせてもらった。
60年代半ばといえば、古き良きアメリカの最後の時期であろう。どの家も大きく、庭の芝生が広く青々としていた。
地元の公立高校に通った。留学生なので好きな科目だけ選択できたが、英文学や歴史はちんぷんかんぷん。なにせシェークスピアが教材だから理解できるはずがない。
一方で英文法はクラスで断然トップだった。日本で不得意だった数学では、50分のテストは3分もあれば簡単に解くことができた。「日本から数学の天才がやってきた」と町中で噂された。
ある日のこと。地元紙の記者がインタビューにやってきた。ポツダムの町に日本人高校生は極めて珍しい存在だった。「将来何になりたいの?」と聞かれ「外交官」と答えると「数学者ではないのか」と驚かれた。
米国の高校生は受験勉強などにあくせくせず、週末にはテニスやダンスパーティーを楽しむ。私も何でも見てやろうの精神で気に入った女の子に、ドキドキしながら覚えたての英語で電話し、デートに誘った。「義理デート」だったに違いないが、人生初のダンスパーティーに出かけた。
ホストファザーの父はケネディ家の政治的アドバイザーだったという。リベラルなプロテスタントで夕食の席でも、政治やベトナム戦争の話題が出る。
大統領選の民主党予備選の最中ということもあり、こんなことがあった。ホストファザーから「近所の家を戸別訪問するから、シゲもついてくるか」と持ちかけられた。民主主義を支える草の根の政治活動なのだろう。
彼はベトナム戦争反対の上院議員マクガヴァンを推していた。やがて「シゲも一人でやってみるか」となった。しかしマクガヴァンがどういう人物か知らない。いたずら心が頭をもたげ、何軒か回るうちに憧れていたケネディ元大統領の弟、ロバート・ケネディをよろしくと変えた。
たった1年間ではあったが、米留学は私の人生にとって決定的な意味を持った。言葉も考え方も違う異国の人との交流は性格にあっていたし、社会やパブリック(公共性)へ関心を持つ契機になった。
日本に閉じこもるでなく海外で羽ばたこう。将来、外交官になるという強い思いを胸に帰国の途についた。
(結核予防会理事長)
【図・写真】米留学時代、ホストファミリーと(右から2人目が筆者)
尾身茂(9) 中学生 ケネディ暗殺の報に衝撃 生徒会長選で演説まねる(私の履歴書)[2025/03/09 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1287文字 PDF有 書誌情報]
私は昭和24年(1949年)生まれの現在75歳。団塊の世代の最後にあたる。
通った中野区立第三中学校は1学年12クラス600人、3学年合わせて1800人もの生徒がいた。ご多分に漏れずマンモス校だった。
自分では自覚はなかったが、最近、久しぶりに会った旧友によると、学校の中でも枠外の「特別な」存在だったそうだ。勉強の方は学年で常にトップクラスだった。
科目の中で一番好きだったのが英語。授業だけでは飽きたらず「百万人の英語」というラジオ番組や、FEN(米極東軍放送網)をたまに聞いていた。
まだ中学1年生の英語の時間。当時流行(はや)っていた曲「砂に書いたラブレター(Love Letters in the Sand)」について、英語の教師に、砂の上に書いたのであれば「in」ではなく「on」ではないかと、生意気な質問をした。
63年11月23日早朝のこと。FENのニュースを聞いていたら、アナウンサーの尋常でない興奮した声が耳に入ってきた。
何度も繰り返される「ジョン・F・ケネディ」「テキサス」「ダラス」という単語は聞き取れた。しかし「アサシネイテッド」という言葉は皆目わからない。「ac」か「as」か。英和辞典で調べると「暗殺」と書かれてあった。
その日は土曜日だったが、まだ「半ドン」の時代だ。放課後、暗殺のショックについて、東中野の駅から西武新宿線中井駅まで、友達と歩きながらずっとしゃべり続けた。
2年生の時、生徒会長に立候補した。マンモス校らしく選挙には11人もが乱立した。憧れのケネディ大統領の演説をまねしたおかげだろう。大差で選ばれた。
これだけ書くと、硬派っぽいと思われるかもしれない。が、意外な一面もあったようだ。バスケットボールの授業で、男子学生の憧れの的だった女子生徒が現れると、急に張り切り出したという。
さて、中学受験に失敗した際の胸のドキドキだが、定期試験を含め普段の生活で悩まされることはまったくなかった。
しかし人知れず、高校受験の際にまたぞろ同じことが起きるのではという心配が、どこか心の底にあったと思う。
夏休みになると、母の実家である群馬県の沼田によく遊びに行った。ある日、急に、胸のドキドキをどうすれば克服できるかを知りたくなり、街の本屋に行き一冊の本を見つけた。
タイトルは忘れてしまったが「自分をよく見せたいという虚栄心が根っこにある」。とくに「不安を感じるのは当たり前、不安は不安として受け入れ、やるべきことに集中せよ」と書いてあった。
自分がコントロールできないことを心配するよりは、コントロールできることに集中すべきだと言われているように感じた。その後も時々、この言葉を思い出す。
思えば、多感な青春の始まりに、心の問題で悩んだことが、その後、心理学、哲学や人生論、仏教やキリスト教などにも興味を持つきっかけになったようだ。
65年春、東京教育大(現筑波大学)付属駒場高校の受験に挑んだ。今回は胸のドキドキに悩まされることなく無事に合格した。
(結核予防会理事長)
【図・写真】中学校時代、友人と(左から2人目の奥が筆者)
尾身茂(8) やんちゃ坊主 幼稚園中退、小学でも監視 兄が通う名門「教駒」に不合格(私の履歴書)[2025/03/08 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1298文字 PDF有 書誌情報]
私には幼稚園時代の記憶がまったくない。どうしてか。入園後まもなく退園させられてしまったからだ。
とにかく、きかん坊でやんちゃだったようだ。落ち着きがなく、じっとしていない。好き勝手をする。人の言うこともあまり聞かない。家ではお仕置きと称して、物置に閉じ込められることも時々あった。
ある日、通園していた東京・中野にある、まこと幼稚園に母が呼び出された。園長先生から「私どもではとても手に負えません」。周りの園児に迷惑がかかることを理由に暗に退園を促された。
女の子の髪の毛を後ろから引っ張るなど日常茶飯事で、いたずらが過ぎるという。この「幼稚園中退事件」については、成人になって母から聞かされるまでまったく知らなかった。
中野区立中野昭和小学校に入学後もやんちゃ坊主の振る舞いは一向に直らなかったらしい。担任を任された東京学芸大学を卒業したばかりの鈴木政子先生も、扱いに困ったようだ。教室の最前列のさらに前、先生の目が常に行き届く「特別席」に座らされた。
「電車に飛び込んで一緒に死のう」。母からこう言われ西武新宿線新井薬師前駅近くの線路まで引っ張って行かれたことがあった。もちろんこれが母の「演技」だとはわからない。「許してよ、もう絶対にやらないよ」。恐ろしくなって必死にこう何度も叫んだことだけは、今でも覚えている。
私には3つ違いの兄、一郎がいる。私とは対照的に、とてもおとなしく親の言うことをよく聞く。勉強もできた。その優等生ぶりは両親にとっても誇りだったに違いない。
そんな兄がいじめられていると、私はこん棒を持って仕返しに行った。年上だからかどうかは別問題だ。相撲をやると誰にも負けない。腕っ節の強さには自信があった。
小学校4年生の時、兄は東京教育大学(現筑波大学)付属駒場中学(通称・教駒)に進んだ。地域の小学校から毎年1、2人しか受からない難関校である。
このころから兄のように振る舞わなければと自然に思うようになった。表立ったやんちゃぶりは徐々に減り、勉強も真面目にやり、学級委員に選ばれるようになった。
勉強をすればテストの点もあがってくる。小学校5、6年時には学年で1、2番の成績になった。自然と「教駒」を目指した。担任の先生も両親もそして当の本人も間違いなく受かるだろうと思っていた。
ところがである。試験当日。算数の問題は一問目からこれまで見たことのないものが続いた。すると急に胸がドキドキし考えることができなくなった。今まで経験したことのなかった生理現象だ。
問題が難しく解けない故にドキドキしたのか、それともドキドキしたから問題が解けなくなったのか。テスト終了の合図とともにそれまで考えもしなかった「不合格」の3文字が脳裏をよぎった。
中学受験の失敗は、落ちたことへの悔しさよりも、突如、緊張のあまり鼓動が激しくなるという恐ろしさ、不安が子供心に残った。いつかまた肝心な場面でドキドキしたらどうしよう。
これは、やんちゃ坊主が人生の初舞台で経験したほろ苦さであった。結局、地元の中野区立第三中学校に進んだ。
(結核予防会理事長)
【図・写真】兄(右)と3歳の頃の筆者
尾身茂(7) 母と父 小学出て奉公に、芯強い母 体の弱い父、5人家族支える(私の履歴書)[2025/03/07 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1327文字 PDF有 書誌情報]
2000年2月16日、東京・中野にある龍興寺で、母、尾身とよの葬儀・告別式が営まれた。私が前の年に世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局長に就任したこともあり、数百人もの方々に参列していただいた。
「あなたは周りの多くの人たちに人間の温かさと安心を生涯を通じて与えて下さいました……」。弔辞を読んだのは、私の東京教育大学(現筑波大学)付属駒場高校時代の親友で朝日新聞の記者だった藤森研くんだ。
よく家に遊びに来てくれた学生時代の仲間は、同窓会などで会えば皆「尾身のお袋さんのことはよく覚えている」と懐かしそうに話す。
母は大正元年(1912年)、群馬県の沼田で生まれた。小学校を卒業し、すぐに地元の開業医宅に奉公に出た。住み込みのお手伝いさんとして働いた。
周りの人に好かれようと必死だったのだろう。もともと体も丈夫で気働きの良かった母は、懸命に働いたそうだ。雇い主から可愛(かわい)がられ、読み書き、そろばんを教えてもらうようになる。
正式な勉強の機会には恵まれなかったものの、苦境にも耐える強さ、どんな人ともうまくやっていく知恵を学んだと思う。
私の通った高校のPTAに出て来る親御さんの大半は名の通った大学を出ていた。「尾身さんはどこの女子大のご出身?」と聞かれ、「群馬の小学校」と答えると、皆は冗談だと思ったそうだ。
東京・中野の自宅の近所にちょっとした資産家でもある大きな八百屋さんがあった。店主から「とよちゃん、とよちゃん」とかわいがられ、よくしてもらったという。
ある日のこと。今でいう不動産投資を持ちかけられた。「お金を貸すから2階を増築し、その部屋を大学生らに貸せばいい」。しばらくして狭くボロかった平屋は2階建てに生まれ変わった。
昭和30年代、父の収入だけでは5人家族が暮らしていくのがやっとだった。3人の子供は贅沢(ぜいたく)こそは出来なかったがお金がなくてつらい思いをすることはなかった。あの時の母の思いきった決断があったおかげだ。
社交的でどこか大胆なところがあり芯の強かった母と対極だったのが父、定次。母より7歳年下だ。
子供のころから体が弱く、旧日本軍の徴兵検査において甲種合格ではなく乙種だったと聞いた。戦時下の若い男性としては相当、ショックだったに違いない。
私が物心ついたときには腎臓や胃潰瘍の手術をしていた。体も食も細かった。
中学しか卒業していないが、頭脳は明晰(めいせき)だったと思う。兄の中学受験では鶴亀算など教えていた。機械をいじるのが好きで、蒸気機関車の運転士になりたかったと言っていたことがある。
川崎市にある日本鋼管(現JFEスチール)の工場でクレーン(起重機)の操作員として働いていた。毎朝5時頃に家を出て、中野から川崎まで通勤していた。几帳面(きちょうめん)に日記をつけるなど、性格は真面目でかつ繊細だった。お酒は大好きで強く、会社の忘年会などでは得意の尺八を披露していたそうだ。
そんな母と父から、私は1949年6月11日に生まれた。「父親似ですか、母親似ですか」と聞かれることがままある。外見は父に、性格は母に似ていると思う。
(結核予防会理事長)
【図・写真】母、父と(右は高校時代の筆者)
尾身茂(6) 前のめり 専門家への非難や責任論 殺害予告する脅迫受ける(私の履歴書)[2025/03/06 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1418文字 PDF有 書誌情報]
私たち専門家の役割はあくまで感染状況の分析と採るべき対策についての提言で、対策の最終決定は政府の役割である。
しかし、私自身、首相の記者会見への同席を要請されるなど、情報発信において前面に出ざるを得ない状況が続いた。「専門家がなんでも決めている」という印象を与えてしまったようだ。
緊急事態宣言は海外におけるロックダウン(都市封鎖)とは違い罰則など法的拘束力はなかった。人々の間で未知のウイルスへの不安感が共有され、人と人との接触が大幅に減り、感染拡大による医療逼迫も短期間で収まった。
半面、経済活動や社会生活への負の影響もみられた。私の元には殺害を予告する脅迫状が届くようになった。
「ルビコン川」を渡った時点で何らかの批判を受けることを覚悟はしていたが、まさか命を脅かされるとまでは思いもしなかった。
2020年5月上旬、「専門家チーム」のあり方を「前のめり」という言葉で評した論考が言論サイトに載った。書いたのは政治学者の牧原出東京大教授。「専門家への不満が非難や責任問題へと結びつき始めているのは、新型コロナ感染症の拡大当初から現在に至るまで、政権と専門家との関係があいまいなままになっているからだ」との見解だった。
牧原氏に直接会って話を聞いた。「専門家会議にはなんら法的根拠がない。特措法の下で新たな会議体を設置すべきだ」という。
特措法とは12年にできた「新型インフルエンザ等特別措置法」のこと。コロナ禍前にこの法律にもとづき有識者会議が設置されていたのだが、コロナ禍において活用されることはなかった。
牧原氏の考えは、有識者会議のもとに感染症対策の専門家による部会と、経済の専門家からなる部会を作るというもの。2つの部会で話し合い親会議である有識者会議にあげて議論し、最後は政府が決める。これだと役割分担と責任の所在がはっきりとする。
しかし政府は2つの部会で相反する意見が出たら困ると考えたようだ。このため経済の専門家も加わる新型コロナ対策分科会を設置するという「改変」だけに終わった。
新型コロナの流行はしばらく続く。しかも長期戦になるだろう。5月25日の緊急事態宣言の解除を機に私たちは「前のめり」という指摘を踏まえ、第1波の対策の何がうまくいき、どこが問題だったかを検証する必要性を感じた。
「卒業論文」と称した検証の原案の冒頭には「我が国では危機管理体制が十分でない」との一文を盛り込んだ。するとこの文言が政府批判と受け止められたようだ。専門家会議として発信したかったが、厚生労働省や内閣官房から了解は得られなかった。
6月24日午後、専門家会議構成員一同という形で公表した。厚労省の記者会見室を使うことはできず、日本記者クラブでの会見となった。文言も「我が国では危機管理を重要視する文化が醸成されてこなかった」に変えた。
会見も終盤にさしかかったころ、記者から突如、こんな質問が飛んできた。「たった今、西村(康稔)担当相が記者会見で専門家会議を廃止すると発言しました。ご存じですか」
私はとっさに「知らなかった」と答えた。同じ日の同じ時間帯に会見を開き発表するとは正直、驚いた。
2つの会見がたまたま重なったか、否か。私にはわからない。3月以降、大臣とは毎日のように顔を合わせてきた。人柄からして意図的にそうしたとは思えなかった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】専門家会議の副座長として会見する筆者(左)
尾身茂(5) 緊急事態宣言 収束の見通し立たず 解除の目安、困難極める(私の履歴書)[2025/03/05 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1365文字 PDF有 書誌情報]
「第1波」が収束する見通しは一向にたたない。2020年3月末から、クラスター対策を率いてきた押谷仁さん、西浦博さん、脇田隆字さん、そして私は毎日のように新型コロナ対策を担う西村康稔経済財政・再生相と大臣室で約1時間、緊急事態宣言発出に向けて話し合いをしてきた。
基本再生産数というウイルスがもつ感染力から西浦さんが試算したところ、現状のままだと1日の感染者数が5000人を超え、さらに増加するという。欧米に近い外出制限をしなければ、もはやオーバーシュート(爆発的な患者の増加)は避けられないとのことだった。
一方で人と人との接触を8割減らせば、約4週間で感染は落ち着き、再びクラスター対策が有効になるとの結果も導いていた。
4月6日午後、私は西村氏とともに首相官邸を訪れ、安倍晋三首相と面会した。世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局長時代に一度、フィリピンのマニラにある日本大使館でお会いしたことがあったが、首相としては初めてであった。
「明日、緊急事態宣言を出さざるを得ません」と私は切り出した。続けて「人と人との接触を8割減らさなければ、短期間での収束は難しいと思います」と述べた。
すると首相は「8割は厳しい。何とかなりませんかね」と即座に返してきた。政治家の直感として「8割削減」だと経済活動や国民生活への影響が大きすぎると判断したのだろう。
その夜、首相の意向を西浦さんに伝えた。私自身、数理モデルを基にした西浦さんの提言は画期的であると考えていた。が同時に、人と人との接触をできるだけ避けることが急務であって、8割という数字に厳密にこだわる必要はないと考えていた。
7日午前、7都府県に対し緊急事態宣言を発出するために政府が専門家に諮る「基本的対処方針等諮問委員会」が開かれた。会長の私は「最低7割、極力8割の接触機会削減」を落としどころとして提案、了承してもらった。
国内初となった緊急事態宣言は、発出する以上にどう解除するかが困難を極めた。
5月上旬に開いた解除の条件を話し合うための勉強会でも意見は分かれた。「感染がゼロに近づいてから解除すべきだ」「いや、それならば発出時にきちんと明示しておくべきだった」「1~2年は続ける必要がある」等々。
緊急事態宣言を発出した根拠は、急激な感染拡大、医療の逼迫、クラスター対策の実施が困難になったという3つであった。最初の2つはすでに改善されていた。
そもそも5月4日に開かれた会議で「ある程度定量的な解除基準の目安」をなるべく早く示すことが合意されていた。目安がなければ決定が恣意的になる。しかし、疫学専門家は厳密なエビデンスがない、無理だと主張。最後はこの分野の責任者、鈴木基さんにクラスター対策が再開可能な感染レベルをなんとか数値化してもらった。
パンデミック(世界的大流行)初期において得られるデータは限られる。厳密な科学的根拠に基づき提案するのがベストだが、完璧さを求めては時間がまってくれない。
「ここは学会ではない。政府に助言するための組織だ。限られたエビデンスの中で意見や判断を述べるのが専門家の役割ではないか」。私は何度となくこの点を強調せざるを得なかった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】安倍首相(右)(当時)と緊急事態宣言の記者会見に臨んだ筆者
尾身茂(4) 3つの密 感染拡大要因、回避促す データ推計、厚労省が猛反対(私の履歴書)[2025/03/04 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1343文字 PDF有 書誌情報]
世界保健機関(WHO)は2020年3月11日、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を宣言した。諸外国が講じた公衆衛生上の対策はまちまちだった。
発生地となった中国は徹底的にウイルスを封じ込めて感染者をゼロにする「ゼロコロナ政策」をとった。
北欧のスウェーデンのように感染防止策をせず、感染者数が増えるのを許容しある程度の死を覚悟しながら、普通に社会生活を維持した国もあった。
一方、日本の対策は医療崩壊を避けるため、感染レベルをある程度抑えながら、死亡者をなるべく少なくすることを目指した。
感染が急拡大すると、欧米の複数の国では都市を封鎖したり強制的に外出を禁じたりする「ロックダウン」がとられた。しかし、日本の法体系では罰則を伴う外出禁止措置は実施できない。
急激な感染拡大が起きて医療が逼迫すれば救える命が救えなくなる。医療崩壊は絶対に回避しなければならない。そうした思いから専門家会議は3月9日に「感染拡大の防止に向けた日本の基本戦略」をまとめた。
社会・経済活動への影響を最小限にしながら感染拡大防止の効果を最大限に引き出すにはどうすればよいか。その一つが「クラスター(集団)対策」だった。
感染が確認された人が過去に訪問した場所などを調べ、共通項を見つけ出しクラスターの発生源を突き止める。そして次のクラスターの発生、つまり感染の連鎖を断ち切る。そのための調査が「後ろ向きの積極的疫学調査」だ。
実はこの調査を通じ、押谷仁さんと西浦博さんが重要な点を突き止めた。換気の悪い「密閉」、多くの人が集まる「密集」、近距離での会話や発声といった「密接」の「3つの密」が重なった場面で感染が広がるという。
今となっては当たり前と思われるかもしれないが、当時はウイルスの正体は不明。「3密を避けよう」をスローガンに国民に行動変容を促す戦略をとることにした。
「3密」は後に国際的に「Three Cs」と呼ばれ、WHOから高く評価された。国際的スタンダードになった。
クラスター対策などにより、パンデミック初期には急激な感染拡大は防げたが、3月後半の3連休を控え、リンクのわからない感染者が増えてきた。オーバーシュート(爆発的な患者の増加)の懸念は払拭できず、新たな策を講じなければならなくなった。
3月19日の提言書を巡って国と専門家との間でこんな攻防があった。西浦さんがこのまま何もしなければ、人工呼吸器の台数を超えるほど感染が拡大する地域が出てくるとのデータを盛り込もうとした。すると「そんなものを入れてどうするんだ」と厚生労働省の担当者が猛反対した。
推計データによって不要な不安を国民に与えるべきではない。国はそう考えたのであろう。一方、私を含め専門家は、データを基にした結果はありのままに国民に伝えるべきだと思った。
巨大地震の情報発信にも似たところがあるのかもしれないが、災禍におけるリスクコミュニケーションの難しさである。
西浦さんと厚労省との話し合いの結果、西浦さんのデータは専門家会議の見解として盛り込まれた。そして同時に提言書の最後に緊急事態宣言の発動の可能性にも初めて言及した。
(結核予防会理事長)
【図・写真】「3密」回避は日本発のコロナ対策になった
尾身茂(3) 専門家 メンバー間で意見衝突 小中高の一斉休校に反論も(私の履歴書)[2025/03/03 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1281文字 PDF有 書誌情報]
専門家会議による独自見解をまとめた2020年2月23日以降、私たちは政府が開く公式の会議とは別に、非公式である「勉強会」を、手弁当で集まって開催してきた。平日の夜や日曜の午後、多いときは週3回開いた。
パンデミック(世界的大流行)における感染症対策とは、複雑な方程式を解くようなものである。しかも正解を導けるかどうかわからない。
ウイルスや感染状況は時々刻々と変化する。検査も医療提供体制も無尽蔵というわけではない。なにより人々の協力を得られなければどうしようもない。
専門家といえども誰一人、新型コロナ対策に関する全てのテーマを熟知している完璧な人などいない。
専門家会議12人のメンバーに加え、必要に応じて様々な分野の専門家を誘い議論に加わってもらった。
ウイルス学や免疫学、感染症学に公衆衛生学、さらには医療社会学等々。みなその道のプロで一家言ある。対策の方向性をめぐって意見が真っ向から対立することがしばしばあった。
2月下旬、北海道において急激な感染拡大の兆候が見られた。3月中旬には北海道以外の都府県でも感染者数が漸増していた。
このままだと、いわゆる「オーバーシュート(爆発的患者急増)」は起こらずとも、市中感染が急速に広まってしまい、医療逼迫が起きるかもしれなかった。
東北大教授の押谷仁さんは、一刻も早く行動制限をかけるなどして、とにかく感染レベルを下げるべきだと主張した。
一方、川崎市健康安全研究所長の岡部信彦さんは、人々の日常生活への配慮も必要なので、感染対策よりも重症化対策に力を入れた方がよいと譲らない。
ともに、世界保健機関(WHO)時代一緒に働き、国内外で信頼されている2人だ。
議論に着地点はみえず、途中、片方が席を立つほどの険悪なムードになった。もちろん2人の専門家としての責任感からきたものだ。
チームワークが乱れることを懸念はしたが、同時にこうしたメンバー同士の衝突をどこか歓迎する気持ちが私の中にはあった。
説得力ある提言は、専門領域が異なり経験・価値観が違う専門家がおのおの考えをぶつけ合い、それを乗り越えてこそできあがると信じていたからだ。
2月27日、政府は全国の小中高校に対し一斉臨時休校を要請した。私たち専門家にとって寝耳に水で事前の相談もなく、報道によって知らされたほどだ。あまりにも唐突だった。
確かに09年の新型インフルエンザの流行では小中学生が感染の中心で、臨時休校には一定の効果があった。
しかし新型コロナの状況はまったく違う。むしろ一斉休校は社会に対するマイナスの影響が大きすぎると考えていた。
政府が示した基本的対処方針案には「文部科学省は専門家の判断を踏まえ(中略)学校の一斉休業をする」との文言があった。
突如決まった一斉休校に私たちは反論した。結局、「案」のとれた基本的対処方針からは「専門家の判断を踏まえ」の10文字は削除された。
その後も政府から「専門家」が都合よく利用されそうになることが度々あった。
(結核予防会理事長)
【図・写真】100を超える提言書を作った(左から3人目が筆者)
尾身茂(2) ルビコン川 12人で専門家会議発足 政府が嫌がる意見表明も覚悟(私の履歴書)[2025/03/02 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1392文字 PDF有 書誌情報]
2020年2月3日、厚生労働省の担当官から電話がかかってきた。「新型コロナ感染症対策でアドバイザリーボード(専門家による助言組織)を立ち上げます。そのメンバーになってください」
たまたまなのであろうか。その日の夜、乗客の数人に感染が確認されたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」が横浜に入港した。
招集されたメンバーは、岡部信彦氏、押谷仁氏、釜萢敏氏、河岡義裕氏、川名明彦氏、鈴木基氏、舘田一博氏、中山ひとみ氏、武藤香織氏、吉田正樹氏、脇田隆字氏、そして私の計12人だった。
初会合は4日後の7日に開かれた。東北大教授の押谷さんや川崎市健康安全研究所長の岡部さんといった世界保健機関(WHO)や09年の新型インフルエンザ対策で一緒に奮闘した人もいれば、初対面の人も何人かいた。
1週間後には内閣官房に「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が発足、メンバーはそのままスライドした。
実は20年早々、私たちはこの原因不明のウイルス性肺炎について、海外の感染症専門家と連絡を取り合い、情報を集めていた。発生地とされた中国・武漢にとどまらず、シンガポールなどでは市中感染が始まっていたからだ。
遅かれ早かれ日本にもウイルスは入ってきて大流行するに違いない。潜伏期間や無症状の人も他の人に感染させる特性を考えると、これまで経験したことのないとても厄介な感染症になるだろう。
メンバー12人は新型コロナウイルス感染症のしたたかさに強い危機感を抱いていた。1週間ほどかけA4判用紙6枚からなる「アドバイザリーボードメンバーからの新型肺炎対策(案)」という非公開提言書を作成、13日に厚労省に送った。
コロナ禍においてまとめた100以上の提言の先駆けとなる文書だ。すでに国内での感染が始まっている可能性を指摘した上で、国民に対して政府から感染状況の全体像がわかるよう情報発信し、状況の変化に応じて可及的速やかに説明することを求めた。
しかし、1週間たっても、政府から新型コロナ対策の全体像は示されなかった。クルーズ船対応に奔走していたとはいえ、このままでは取り返しのつかないことになる。
皆にフラストレーションがたまっていくなか、武藤さんの提案により、専門家として独自の長期的な見通しや基本戦略をまとめ、一般市民にも知らせるべきだということになった。
23日午後、メンバーが急きょ東京大医科学研究所内の会議室に集まり、独自見解案をまとめた。厚労省に送ったところ、すぐに懸念を示した回答が返ってきた。要はやめてほしいということだ。
「ルビコン川を渡りますか」。私は皆に質(ただ)した。霞が関の世界には専門家は政府から聞かれた個別の課題にのみ答えるという暗黙のルールがある。この境界線を越える覚悟があるかを問うたのだ。全員が賛同してくれた。
翌日、加藤勝信厚労相に直談判し、一専門家ではなく専門家会議として見解を出すことを了承してもらった。
当初、記者会見で自ら説明する予定はなかったのだが、なぜか独自見解を政府に示したことがNHKに知られ、夜7時のニュースへ出演、説明することになった。
2時間後、厚労省で緊急記者会見となった。国のコロナ対策において私たち専門家が表舞台に登場する日々が始まった。(結核予防会理事長)
【図・写真】政府の専門家会議副座長として会見する筆者(右)(2020年2月)
尾身茂(1) 100年に1度 新型コロナとの格闘1100日 自分を越えためぐり合わせ(私の履歴書)[2025/03/01 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1298文字 PDF有 書誌情報]
2023年9月14日、東京都千代田区の日本記者クラブで「最後の記者会見」に臨んだ。2週間前、新型コロナウイルス感染症対策分科会が正式に解散となり、分科会会長の職を解かれていた。
「100年に1度といえる危機だった。感染症対策の経験を持つ専門家が言うべきことを言わないと、歴史の審判に耐えられない」
およそ3年、1100日に及ぶコロナとの格闘を振り返り、率直な感想を述べさせてもらった。
結核、ポリオ、鳥インフルエンザ、SARS(重症急性呼吸器症候群)、09年の新型インフルエンザ等々。医師として公衆衛生の専門家としてほぼ40年、国内外で様々な感染症と対峙してきた。
しかし、今回の新型コロナほど手ごわく、厄介な感染症はなかった。
19年末に突然現れた未知のウイルスは、医学、疫学の分析によりその正体が徐々に明らかになっても、変異によってめまぐるしくその姿を変えていった。
私たち専門家の役割は感染状況の分析と求められる対策について科学的知見に基づき政府に助言することだった。振り返ると100以上の提言をまとめることになった。
データや時間の制約の中でも、提言が合理的で歴史の検証にも耐えられるよう、根拠にしたデータや考え方をできるだけ公表してきた。
しかし、パンデミック(世界的大流行)が長期化し、様々な情報が錯綜(さくそう)するなかで、提言の背景や根拠が必ずしも正確に伝わったとは言い難い。
1年延期となり無観客での開催となった東京五輪や「Go To トラベル」の是非を巡って人々の意見は大きく分かれた。「社会の分断」の様相さえ示した。
私は1978年に医師免許を取得後、臨床、地域医療、研究、行政、国際保健、組織マネジメントなど医療に関する様々な仕事をしてきた。
とりわけ90年から20年もの間、日本を離れ、フィリピンのマニラにある世界保健機関(WHO)の西太平洋地域事務局において主にアジア地域の感染症対策にあたった。
一般の人々が描く、医師や専門家のイメージとはかけ離れた人生を送ったといえる。
今回「私の履歴書」をつづるにあたり過去の古い写真や様々な記録を見返した。「なぜ今の自分があるのか?」と自問自答する機会になった。
生まれながらのやんちゃな性格は、小学校入学前の写真を見ると隠しようがない。やりたいことには一度決めたらとことんのめり込む。それは今も変わらず、妻からは「オンとオフがはっきりしている」とよく言われる。
40歳以降、たまたま国内外で社会的に責任の重い役割を担うことが多くなったが、人生の道筋を初めから描き、それに沿って生きてきたわけでは決してない。
神か仏かはわからないが、自分を越えた何かのめぐり合わせで、今の自分があるとつくづく思う。
21世紀以降、世界のグローバル化とともにパンデミック発生のリスクは増している。早晩、また新たな感染症の大流行がやってくるだろう。
今日から1カ月、新型コロナと格闘した「1100日間の葛藤」やWHOにおける公衆衛生の舞台裏を、私の風変わりな半生とともに紹介させていただく。
(結核予防会理事長)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
一条ゆかり(27) 我が人生 右手に自由、左手に仕事 好きなことに才能があった(私の履歴書)終[2025/02/28 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1409文字 PDF有 書誌情報]
ナスにトマトにキュウリ、レタスなどの葉物にピーマン、ゆず、ブルーベリー、イチジク……。我が家の屋上にある家庭菜園は、とてもにぎやかだ。ハッサクと間違えそうなほど、なぜか丸くて大きいレモン。大量に採れる、劇的に甘くて美味(おい)しいイチジク。
花より団子、食べることが大好きな私だが、悩みがある。とにかく野菜が大嫌いで中学生になっても食べられる野菜はレンコンの酢漬けときんぴらゴボウ、トマトだけ。そんな私が好き嫌いを克服したいと悩んだ結果、野菜を育てるという荒業に出たのだ。
手間暇かけて、創意工夫研究した野菜に愛が生まれた。自分で育てた犬は可愛(かわい)いし、自分で作った野菜は何だか愛(いと)おしい。愛は偏食を救い、今や香味野菜以外なら何とかクリアできる。ハレルヤ。
そんな私は、同じことを繰り返す単純労働が苦手で、すぐに飽きて他のことをやりたくなる。ほぼ60年も飽きずに漫画を描き続けられたのは、同じ絵、同じ作品を描かなくていいからだと思う。
上京前は、漫画の仕事だけでは食べていけないと思い、アレコレ副業を考えていた。商業高校出身なので、簿記2級、そろばん2級を武器に事務員はやれる。
否、いつ漫画の仕事が入っても対応できるようにせねば。スナックでツマミでも作りながら酔客の愚痴でも聞いてあげて、たいていの軍歌は歌えるから、おじさんとカラオケのデュエットくらいはしてやるか……とか考えていた18歳。我ながら怖い。
モットーは、左利きなので「右手に自由、左手に仕事」。仕事をキチンとやれば、自由も得られると思った。
一方、漫画は自分にとって唯一無二の道楽だ。人気漫画家と呼ばれるようになっても、大きなビジネスにするのは嫌だった。「もっと仕事を増やして世界を~!」とか言われても、自分を縛ることは極力避けたいし、ライバルも昨日の自分でいい。
そんな私も昨年、後期高齢者になった。15年近く漫画の仕事を極力控えたおかげで、腱鞘(けんしょう)炎はだいぶよくなった。
漫画を描くのは控えたいが、日常生活は何の問題もない。左右両眼合わせて緑内障の手術を5回ほどやって、左目は何とか見えるが、右目は中央の視野が欠けているのでかなり見えない。左右の視力が極端に違うので、距離感が取れず、キャッチボールなんか怖くてできません。
それでも完全リタイア生活はボケが怖いので、今は文章の仕事などやっております。
いい機会なのでちょっと宣伝を。今月「男で受けた傷を食で癒(いや)すとデブだけが残る」という、脂肪に刺さるタイトルの説教本と、「塗り絵倶楽部」という、一条のカラーイラスト見ながら塗り絵してみてね~という本が出ました!
そういえば、昔インタビューで「一条さんにとって漫画とは?」と、聞かれたことがある。「私を助け支えるものです」と答えた。実際今まで辛(つら)いこともあれこれあったが、締め切りがあって、泣いてヤケクソで仕事をしてたら、いつのまにか過ぎていた。
同じインタビュアーに「それでは幸せとは?」とも聞かれた。「自分が好きなことに才能があることです」と答えた。
自画自賛だが本当にそう思う。漫画が好きで、のめり込んで努力してたら才能があって、実に幸せな人生を過ごしたと思う。
まさに、我が人生に悔いなしである。
(漫画家)
=おわり
あすから結核予防会理事長 尾身茂氏
【図・写真】2021年の誕生日に編集者から贈られた花束と
一条ゆかり(26) サガン 不健康に憧れ退廃描く 「有閑倶楽部」は余興のつもり(私の履歴書)[2025/02/27 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1311文字 PDF有 書誌情報]
昔の洋画が好きで、その香りに包まれた漫画を描きたいという話は既にしたと思う。ほかにも少女漫画は、美術や文学などさまざまなものの影響を受けている。
例えばアール・ヌーヴォーの画家アルフォンス・ミュシャが嫌いな少女漫画家はいないんじゃないかな。草花などの装飾で華やかに描かれた、粋で官能的な女性像。ただ私自身は、曲線の多いアール・ヌーヴォーより、もう少し直線的で、すっきりしたアール・デコの方が好みだ。
東南アジアの高級ホテルなどに見られるコロニアル建築も好きで、植民地時代の面影が残る天井のファンや手すりやドアに魅せられ、夏冬問わず我が家の天井でもクルクル回っている。
「華麗なるギャツビー」の世界、装飾的でありながらシンプルなアール・デコのイラストやインテリアなどに漂う「退廃」や「華奢(きゃしゃ)」「はかなさ」には、沈みゆくヴェニスのように心惹(ひ)かれる。
人は自分に無いものに惹かれるらしく、心も体も超健康優良児だった私は、今考えるとアホだが、不健康に憧れていた。
そうしたデカダンスな世界を描いたフランスの作家にフランソワーズ・サガンがいて、「悲しみよこんにちは」ほど有名ではないけれど「優しい関係」という短編小説がある。担当編集者に無理を言って版権を取ってもらい「恋人たちの時」とタイトルを変更し1972年、「りぼん」で漫画化した。単行本にもしたかったけど、何しろ53年も前のこと。フランスに改めて許可を取るのが難しかったようで、なし崩しに……。
舞台はフランスではなくアメリカのハリウッド。中年にさしかかった女と、同世代の恋人と、ヒッピーのような若い男の、恋愛ごっこのような話だ。ヒロインが拾った若い男は天使のように美しく、彼女を慕う余り狂気じみた行動に出る。けれどヒロインは、彼に振り回されながらも同居を続ける。
私は、若い男のキャラクターを髪が腰まである長髪にした。ここまでロン毛の男を漫画で描いたのは、私が最初だったと思う。
私はサガンの小説にある、少し背中がたるみ始めた年齢の女の感覚を、描いてみたかったのだが、「りぼん」は子供雑誌だ。さすがにヒロインの年齢は引き下げざるを得なくて、その野望は果たせなかった。
しかし、この時サガンの小説と向き合ったからこそ、後に「砂の城」(77年連載開始)も描けたのだと思う。これもフランスとアメリカを舞台にした、16歳年下の少年と命懸けの恋をするヒロインの物語だった。
障害があればあるほどラブストーリーは描きやすいので、貧富の差や戦争、年齢差、同性愛などいろいろ描いてきたが、最近は障害のハードルも低くなりすぎて、作家側としては仕事がしにくい世の中だ。
そんなわけで「有閑倶楽部」から私の作品を読み始めた読者は、私のことをアクション・コメディのようなエンタメが得意な漫画家だと思っているかもだが、実は「有閑倶楽部」は「こんなのも描けるんだよ」と余興のつもりで描いた作品でした。
不健康に憧れて、退廃や狂気をどうにか少女漫画で描こうとしてきた私だが、今は死んでも健康第一! である。
(漫画家)
【図・写真】サガンの小説を原作にした作品(明治大学現代マンガ図書館蔵)
一条ゆかり(25) 海外旅行 老後はパリ! 高ぶる珍道中 帰国のたびに知る日本のよさ(私の履歴書)[2025/02/26 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1412文字 PDF有 書誌情報]
既に話したように、私は田舎の貧しい家庭で育ったので、子供の頃から贅沢(ぜいたく)と貴族というものに憧れていた。自分でも俗物のミーハーだと思うが、この俗っぽさが結果的に少女漫画家という自分を助けてくれたのだから、ミーハーで良かった。いつもミーハーアンテナを張っていたので、一般の人より半歩早く、流行をキャッチして、漫画に生かすことができたのだ。
当然、漫画家になってお金を持てた途端に「憧れのヨーロッパへ行くぞ!」だ。日本のパッケージツアーの先駆け、ジャルパックである。20歳くらいの時だったから、1970年頃だろう。
ヨーロッパの主要都市を超一流ホテルで巡った。私以外ほとんどが新婚旅行か、高齢の裕福そうなご夫婦。医大を出たばかりの青年だけが一人参加だったので、自由行動の時は彼と一緒に食事に出かけ、大失敗もした。
確かローマで、医大青年とレストランに入った。メニューを開いたが、全く読めない。当たり前だが全部イタリア語だ。メニューはでも4つのブロックに分かれていた。きっと一つ目のブロックが前菜、2つ目がパスタか何か、あとはメインとデザートだ! そう推理した私は、ブロックごとに一つずつ指さした。
注文を受けてくれたおじさんは「本当にそれでいいのか?」というような、当惑の表情だ。構わずうなずいたら、最初に運ばれてきたのはスープ。よし、と思ったら、次も、その次もスープがきた。ここまで来てやっと私は気がついた。4つのブロックは4種類のコースで、私は見事にスープばかり指さしたのだ!
でも旅は、失敗もするから楽しいのだ。今と違って、翻訳機もスマートフォンの地図アプリもなかった。その後もアシスタントや漫画家仲間らと、毎年のように海外に出かけて、その珍道中をエッセイ漫画に描いた。
若い頃は、パリのカフェのギャルソンが、頭が薄くて腹も出ているのに粋で、カルチャーショックを受けた。夜遊びしているオシャレなおばあちゃんに「40や50なんて子供よ」と言われて「カッコいい!」と感動した。日本では、男は何歳になっても遊べるだろうが、女は悔しいかなそうはいかない。世間様は女には厳しい時代だった。よし! 若いうちは日本で遊びながらお金も貯(た)めて、老後はパリだ! と野心を燃やしたこともあった。
こういうプライベートの旅のほかに、読者と一緒の旅行というものもあった。70年代だったか、当時は私が漫画を描いていた雑誌で「一条先生と一緒にヨーロッパへ行こう」という企画があったのだ。
編集者2人と私と、夏休み中の小中学生3人でフランスやドイツなどヨーロッパを巡った。参加者は一般公募して審査で決めたのだと思う。
私の担当編集者は大抵、私と同様、大酒飲みだ。この時同行した編集者も酒好きの男性で1人は酒に呑(の)まれるタイプの危険人物、もう1人は酒と友達のタイプ。使える編集者は手がかかる危険人物のお守りで手いっぱいで、結局3人の子供たちのケアは私がやるはめになった。ほぼ、マナー教室の先生でした。
そうこうしているうちに、私に変化が起こった。嫌で逃げ出そうと思っていた日本が、海外から戻るたびに良い国に見えてきたのだ。日本しか知らず、日本の嫌なとこばかりを見ていた私だったが、世界を知って反省した。
ごめんなさい日本。「老後はパリ計画」やめました。
(漫画家)
【図・写真】旅行スタイルもエッセイで紹介した(「一条さんちのお献立て」から)
一条ゆかり(24) プライド 緑内障進行、最後の連載 岐路の力となる作品届ける(私の履歴書)[2025/02/25 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1362文字 PDF有 書誌情報]
2000年代に入って、重い緑内障が発覚した。仕事中、左右の見え方が大きく違うことに気づいて、アシスタントに話すと「すぐ病院へ」と言われた。
「眼圧が高すぎるから、簡単な手術をした方がいい」という眼科医に「手術してもしなくてもいいんですか。他に対処方法が?」と私。「いや……他には……」「じゃあすぐやってください。また来るのも手間なので、今日できますか?」「へ!?」
この日の一般診療が終わるまで、おいしいものを食べて待って、手術してもらった。決断の速さに医師は驚いていたけど、私は「ねばならない」現実なら、さっさと受け入れるたちだ。
母も重い緑内障を患っていたが、私の緑内障も、この時かなり進行していた。治療はできても完治はしない。
長い連載の仕事は、今、手掛けているものが最後だろう。そう覚悟した。それが「プライド」である。
初心にかえって考えた作品だ。デビューしたはいいが、下請け仕事のような20代前半の頃、「漫画家になって何を描きたかったのか」を自問自答して出した答えが「デザイナー」だった。この時私はタイトルを「デザイナー」と「プライド」で迷った。
「デザイナー」の頃の私が描きたかったのは「仕事におけるプライド」だ。それから30年近く後の私にとって大切なのは「人としての誇りと尊厳」だった。「プライドを持って生きるとはどういうことか」。一番誤解されやすくて描くのが難しいテーマだが、悔いを残すことなく最後まで描ききりたいと思った。「コーラス」2003年2月号から、ずばり「プライド」という漫画の連載を始めた。
ヒロインは対照的な性格の2人。自分が納得する生き方をしたくて、自分ばかり見つめるお嬢様の史緒(しお)と、親の愛情を受けられず貧しく育ったがゆえに「愛されたい」気持ちが強く、欲しいものを手に入れるためならプライドなどあっさり捨てる、萌(もえ)。この2人が、オペラの世界を舞台にライバル関係になる。
幸せには大きく分けて「自分自身が自分を認める幸せ」と「人に認められる幸せ」があって、「愛する喜び」と「愛される喜び」によく似ている。日本の女性にはどうも、萌のように、人から認められてナンボ、と感じている人が多いように思う。
私自身、迷ったことがある。集英社でデビューして間もない頃、バレーボール漫画の話がきた。新人にとって喉から手が出るほど欲しい連載だ。その頃スポーツ漫画が大人気で、この仕事を受ければ世間から早々に「認められる」可能性は高い。が、その後も多分スポーツ漫画ばかり要求され、自分の描きたいものが描けなくなる。それは絶対に嫌だ、漫画家になった意味がない。そう考えてこの話を泣く泣く断った。
とはいえ何を選ぶかは人それぞれだし、大抵の人に「プライド」の史緒と萌の、両方の要素があるだろう。人生で迷った時に、読者にこの作品が役に立てば嬉(うれ)しい。私は、ファンに恩返しするつもりで、初めて読者に届けたいと思いながら、「プライド」を描いた。
目がつらいのと効率化も考えて、途中からデジタル作画を取り入れた。しかし、どこまでも拡大できるのでデッサンの狂いや細かいアラがどんどん気になり、結局、アナログの時より時間がかかってしまったのは、想定外だった。
(漫画家)
【図・写真】「プライド」の史緒(右)と萌
一条ゆかり(23) 恋のめまい 「身も心も」を直球で描く 愛で人を癒やすとは? 熟考(私の履歴書)[2025/02/24 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1366文字 PDF有 書誌情報]
1994年創刊の雑誌「コーラス」で、まず何を描くか。考えた末に、私は「恋愛」にした。「もう恋愛しか無い」というような話にしようと思った。タイトルは「恋のめまい 愛の傷」。「恋をしたらめまいがして、愛によって傷ついた」という意味だ。
四半世紀以上も少女漫画家をやってきたのに、私が明確に「恋愛」だけをテーマにしたのは初めてだった。私にとって恋愛は「身も心も」だが、少女誌「りぼん」で描いていいのは「心」の部分だけ。だから、のめり込むような恋愛は描きにくかった。しかし、大人向けの「コーラス」でなら、身も心も溺れる恋愛を描ける! そう思った。
かつて年下の少年と愛し合い、泣く泣く別れたヒロインが数年後に偶然、その兄と婚約する。文字通り身も心も溺れた相手とヒロインが再会して、葛藤する話だ。
ヒロインは、比較的裕福に育った普通の女性。この漫画ではヒロインよりも、彼女の婚約者のキャラクターを工夫した。他に好きな男がいるのに、それでも結婚したいとヒロインが思うような、人格的な男性に描きたかった。
この漫画を連載しながら、男のセクシーってなんだろ? など、女性の性欲についてあれこれ考えた。とはいえ下品になってはまずい。何をどの程度、どんなさじ加減で描くか。難しかったが、恋愛に対しての直球勝負がとても楽しかった。「りぼん」で長年、自分が溜(た)めていたストレスの大きさを知った。
95年3月号で連載終了。燃え尽き症候群になった。しかし、すぐに次の連載を、という話になる。
どうしようかと迷っていたある日、公衆電話ボックスに入った。携帯電話がまだあまり普及していなかった頃だ。するとボックスの壁に、女性が家まで来てくれるという風俗店のチラシがペタペタと貼られていて、知り合いの漫画家の絵が、おそらく勝手に使われていた。ああ、気の毒に。チラシを眺めているうちに、頭の中が動き始めた。
おねえちゃんが来てくれるの? だったら、お兄ちゃんだってありか? 出張ホスト? 大学生の学生アルバイト……いやいや大学生ホストって既にいるし、高校生が出張ホストをする方が面白いのでは?
このアイデアが「コーラス」95年10月号から始まった連載「正しい恋愛のススメ」になった。出張ホストの仕事で女性とデートしている少年が、同級生の少女と、その母親の両方と関係を持ってしまうという話だ。
全く正しくない恋愛ばかりが出てくるので、タイトルを諭吉先生にあやかって「正しい恋愛のススメ」にした。この漫画で私は「愛で人を癒やす」ことについて、深く考えた。
主人公の友人の護国寺は、本気で好きで一緒に暮らしている女とは、肉体関係を持たない。この護国寺の恋人は、とてつもなくお人よしで、頭もあまり良くない。私が描いたことのなかった女性だが、護国寺は彼女と共にいる時だけ、安らげるのだ。
取材もした。ホストクラブでアルバイトしたことのある知人に話を聞いた。ほかに、漫画の中の高校生のセリフを当時の高校生に見せて、おかしいところはないかチェックしてもらった。
この漫画には、見た目は微妙だが優しい同性愛のオジサンも登場する。オジサンと護国寺は「正しい恋愛のススメ」の人気キャラクターになった。
(漫画家)
【図・写真】「正しい恋愛のススメ」(「コーラス」1995年11月号から)
一条ゆかり(22) コーラス 退路断ち「りぼん」を卒業 創刊号表紙、責任感じる(私の履歴書)[2025/02/23 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1332文字 PDF有 書誌情報]
1990年代に入って、とうとう少女漫画誌「りぼん」を卒業した。
ある日の午後、知り合いの編集者に新宿のフルーツパーラーに呼ばれた私。この頃、彼は集英社の雑誌「office YOU」の編集長で、想像はしていたが執筆依頼だった。
私はあらん限りの難癖をつけて断ろうとした。学生時代アルバイトはしたが、漫画家以外したことがない私がオフィスで働く女性の為の雑誌では描けません、と言った。
編集長は「OLだけを対象にした雑誌ではない」と食い下がったが「この雑誌名を見た人は、大抵、OL向けの雑誌と思いますよ。この雑誌名では描きたくないです」と言い返した。雑誌名を拒否するという恐ろしい暴挙に出た私は、さすがにちょっと後ろめたかったが、これでこの話は終わりだと思った。
しかし彼は諦めず、しばらくすると「新しい雑誌『コーラス』を作ります。これならいいでしょう?」ときた。ひえぇ! 私に描かせるために新雑誌を作るとは! 恐ろしい男。断れなくなった。この頃私はまだ結婚していて、編集者の夫がこの雑誌に異動になった。外堀を埋められた私は観念した。
68年に集英社でデビューしてから、一貫して月刊の少女漫画誌「りぼん」の専属だった。少女誌でデビューした漫画家仲間の多くが青年誌や女性誌に活動の場を移しても、私は「りぼん」で粘った。自分の実年齢に近い読者を対象にした雑誌で描く方が楽だろうが、すると二度と少女誌に戻れなくなると思っていた。
でも90年代に入ると「りぼん」編集部が、私を扱いにくく感じているのも分かった。もともと、私の作品は「りぼん」に向いていない。本音を言えば少女のかわいらしい恋よりも、人間はどこまで追い詰められると精神が破綻するか、といったことに興味がある人間だからだ。
実際に「少女向けでない」などの理由で連載を前半だけで打ち切られたり、少しの期間しか単行本に収録されなかったりした作品がある。広告業界を舞台にした「5愛のルール」や、少女が精神を病んでいく「果樹園」だ。
話を戻す。そんな私が「コーラス」で描くなら、逃げ場を作らず退路を断とう。そう考えて「りぼん」編集部へ出向き「今までありがとうございました。『コーラス』の専属になります」と宣言した。「え、そうなの?」という反応だった。
「コーラス」では、同じ集英社の「別冊マーガレット」で長く活躍した、くらもちふさこさんや槇村さとるさんも、一緒に描き始めた。おそらく集英社としては、ベテラン漫画家の流出を避けるためにも、新たな雑誌が必要だったのだろう。1994年7月号の「コーラス」創刊号は、私が表紙を描いた。
キャッチコピーは「少女まんがもオトナになる」。大人の女性向けの雑誌だけれど、一部のレディースコミックのように、下品な官能小説のような漫画を載せる雑誌ではない。そういう意識を皆が持っていたと思う。
「りぼん」でたくさんの制約を受けてきた私が、「コーラス」で初めて「何を描いてもいいですよ」と言われた。とはいえ、創刊号の表紙を描いた責任がある。この雑誌を失敗させるわけにはいかない。さぁ、何を描こうか。私は考え込んだ。(漫画家)
【図・写真】1994年の「コーラス」創刊号(明治大学現代マンガ図書館蔵)
一条ゆかり(21) ペットの家族 愛犬たち 漫画にも度々 情の深い子も自信家も(私の履歴書)[2025/02/22 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1339文字 PDF有 書誌情報]
随分、私の漫画にも登場してもらったから、ペットの話もしておこう。
新宿の、地下1階がホストクラブで1階に喫茶店が入っているビルで暮らしていた頃のこと。飲んで朝帰りしたら、階段の横に子猫がいた。
隣の部屋のお姉さんの猫だろうと思って連れ帰り、ミルクを飲ませて返した。すると翌日、ベランダを伝って我が家へやってきた。また返しに行くと「あげましょうか?」と言われてムカついたのでもらった。
これが猫を飼い始めたきっかけだ。猫との思い出も多いけど、時間でいうと、犬と過ごした年月が長い。
中でも付き合いが長かったのは、12年も一緒に暮らしたコリーの蘭丸だ。この子には「有閑倶楽部」の、松竹梅魅録(みろく)のペット、男山のモデルになってもらった。漫画では肥だめに落ちるような過酷な経験をさせてしまったが、そんな目にあっても怒らないかもしれないような、優しくて、かなりうっとうしいくらい情の深い子だった。
家の中ではよく、私の外出を阻止するかのように、私と部屋のドアの間に座っていた。出かける準備をすると、世界の終わりのような悲しい表情になる。それを振り切って玄関に座って靴を履いていたら、前脚を私の肩に載せた。試しに立ち上がってみたら、後ろ脚を私の腰に上手に巻き付けた。おんぶができた。
帰宅すると、そばに来ればいいのに、わざわざ少し離れて、私にお尻を向けて座って、コタツの布団の端をかじる。まるで、浮気して帰ってきた夫にすねた態度を見せる妻だ。あるいは、そういう妻を演じている演技派の女優みたいだと思った。
この蘭丸が年を取って弱ってきた時、弟がいれば元気が出るかもしれないと、シベリアン・ハスキーの子犬を引き取って藤丸と名付けた。この犬種が活躍する漫画「動物のお医者さん」が話題になっていた頃で、私もこの漫画の「チョビ」が大好きだった。でも我が家の藤丸は、おっとりしたチョビと全然違って、老いた蘭丸にみついて遊び、私が叱りつけると、みつかれた蘭丸が藤丸をかばう。お人好(よ)しならぬお犬好しの蘭丸とチンピラの藤丸だった。
次に我が家にやってきたバーニーズ・マウンテンドッグの歳三は動くぬいぐるみと呼ばれるほどかわいく、性格は見事なマイペース。私が出かけようが帰宅しようが我関せず。帰宅して「歳ちゃん、ただいま~」と何度か大声を出すと、ゆっくり部屋を出てきて、ちらっと私を見ると元いた場所に戻るのだった。
いつも、ナマコのように床に平べったくなって寝ているのに、ある時、居間できちんと座っていた。あ、ご飯をあげるのを忘れていたと思って、用意して、台所から「ご飯、できたよ~」と声をかけても来ない。なんで?
ひょっとして……と思ってご飯を持っていくと、食べた。僕は居間で食べるのだ、と決めたらしい。
イギリスの、分厚い犬の図鑑を見る機会があったので、バーニーズ・マウンテンドッグのページを開いてみたら「自信家」と書いてあった。大笑いした。全くその通りだ。
彼らの姿は、漫画やイラストなどに何度も描いた。今は犬も猫もそばにいなくて、1人で暮らしながら、写真を飾っている。振り回されて疲れることも多かったけど、どの子も私の大切な家族だった。
(漫画家)
【図・写真】左が蘭丸と藤丸、右は歳三
一条ゆかり(20) 後輩たち 腕は確か でも締め切りが 新機軸の「ぶ~け」に売り込む(私の履歴書)[2025/02/21 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1380文字 PDF有 書誌情報]
自動車などのメカを描くのを手伝ってもらった弓月光、新谷かおる、聖悠紀の「メカ3兄弟」のほかにも親しい漫画家仲間や後輩はいる。
私のアシスタント出身の漫画家で、特に親しいのは松苗あけみだ。1970年代半ば、彼女が初めて私のマンションに来た時、髪が菓子パンのチョココロネのような縦ロールになっていた。気合を入れたらしいのだけど、私にしてみれば、この子やる気あるの? である。すごく絵の上手な内田善美が忙しくてアシスタントを続けられなくなり、彼女の推薦でやって来たのだから腕は確かだろう。
漫画家には大きく分けて「ストーリー型」と「イラストレーター型」がいると思うが、内田善美や松苗あけみは典型的な後者だ。内田善美の漫画はまるで画集のようだし、松苗あけみも、小さな花々や髪の毛など、気の遠くなるような細かい絵を描く時の集中力がすごい。
でも、このあけみちゃん。アシスタントに来始めて間もなく、「見たいドラマがあるのですが」ときた。いいよと言ったら「大奥」だった。このタイトルのドラマは何度も作られているが、その中でもマニアックな、かなりエロバカバカしい呆(あき)れた内容で確かに面白かった。
やがて週末にも「見たいテレビが」。競馬中継だった。見て構わないが、この趣味には私は付き合えない。
とてもかわいい少女と少年を描く人だけど、締め切りを平気で破るタイプでもあり、お話もなかなか作れない。サンリオが一時出していた月刊誌「リリカ」でデビュー。この雑誌が終わると集英社の週刊誌「セブンティーン」での仕事が決まったと聞いた。彼女に週刊誌の仕事など絶対に無理と思って、私は思わず「断りなさい」。
ちょうど集英社の月刊誌「ぶ~け」が創刊されたころで、編集長に松苗あけみを紹介した。彼女のちょっと腹黒い性格を、かわいい絵で中和したような漫画ができると面白いと思った。やがて彼女は女子高生の本音をぶっちゃけた「純情クレイジーフルーツ」などのヒット作を生み出す。
大矢ちきも、私の「デザイナー」などを手伝ってもらった。私が審査委員長をしていた新人漫画賞で準入選。その時「なんて絵がうまいんだろう」と感心して経歴を見ると、現役の愛知県立芸大生。なるほど、本格派だ。彼女はやがて、イラストやパズルの世界に活動の場を移した。
私のアシスタントではないが、吉野朔実(さくみ)も思い出深い。彼女の作品を目にして、「ぶ~け」の編集長にすぐ「彼女は逃しちゃだめよ。絶対に雑誌の中心の一人になるから」と助言した。
吉野朔実の「少年は荒野をめざす」のような文学的な作品と、松苗あけみの漫画が両方載っていると、バランスの良い雑誌になると思った。実際に「ぶ~け」は80~90年代の、ちょっと意識の高い、文学少女のような子たちの支持を得た。10代の少女が皆、ありふれた恋物語を好むわけではないのだ。
編集長にアドバイスするだけでなく、私自身も「ぶ~け」には2000年の休刊まで旧作の総集編を載せたり、エッセイ漫画を描いたりと協力した。当時としては珍しいA5判で、700ページを超えることも多かった分厚い雑誌なのに、編集部は集英社の他の漫画誌の編集部の隅を間借りしているかのような、小さなスペースだった。
(漫画家)
【図・写真】「ぶ~け」に連載した「犬でもできる語学留学」の扉イラスト(1992年11月号)
一条ゆかり(19) 披露宴 ドレスは自分でデザイン ケーキより酒 樽に木槌「入刀」(私の履歴書)[2025/02/20 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1345文字 PDF有 書誌情報]
7年ほど結婚していた期間がある。相手は7歳下の編集者。披露宴は面白かった。
1987年、会場は東京都内の有名ホテル。そこを選んだのは、ひとつには中華がおいしいホテルだったからだ。披露宴では花嫁の私も食べたい。だとすると食べやすそうなのは、ナイフとフォークを使うフレンチより、箸やレンゲでちゃちゃっと食べられる中華だと思った。
まず驚いたのは、披露宴の打ち合わせで「お嬢様」と呼ばれたことだ。当時私は37歳。うわぁ~人生で初めてお嬢様と呼ばれた! と大笑い。新婦になる方は、何歳であろうと、そう呼んでもらえるのだ。
恥ずかしい演出は苦手だから、両親への花束贈呈とか、ケーキ入刀はやめて「樽(たる)酒で鏡割りをやりたい」とお願いした。なにしろ結婚相手は、登場人物の名前が酒の名前になっている「有閑倶楽部」を一緒に作っていた編集者で、共に大酒飲みだったから、ケーキより酒なのである。
するとホテルの人は「お嬢様、結婚披露宴で『割る』とか『別れる』は禁句でございます。鏡開き、ですね」。
結局、披露宴では新郎新婦で木槌(きづち)を手に酒樽の蓋を叩(たた)き割り、その酒をキャンドルサービスの代わりに招待客に振る舞った。私は当時、東村山市に住んでいて、近所の仲良しのおばさんたちも招待したんだけど、そのおばさんたちが歌った歌が「別れても好きな人」。いや確かに、何でも好きにしていいとは言ったけど、これを歌うとは。
ウエディングドレスも自分でデザインした。ボディーコンシャスなマーメイドラインで、レースもフリルもないすっきりしたロングドレス、胸の谷間が見えるタイプのもの。メークも、アン・ルイスさんも担当している方にお願いして、メリハリのあるパンチの効いた顔にしてもらった。
お色直しのドレスは、黒。膝上くらいの丈で、上半身はノースリーブで黒のスパンコールがギッシリ。スカートは黒のチュールレースが20枚くらい重なったもの。もちろん私のデザインである。舞台衣装みたいだった。お祝いのスピーチをしてくれた里中満智子さんも開口一番「花嫁の胸の谷間、初めて見ました」。まあ、そうだろう。
そして食事である。新郎新婦は、誰かがスピーチしている間は、その人の顔をしっかり見て、ふむふむとほほ笑みながらリアクションしなくてはならない。スピーチ中にガンガン食べるわけにはいかない。じゃあいつ食べるかというと、スピーチとスピーチの間である。
これがなかなか食べられない。私のために取り分けられた料理が載った小皿が、どんどん増えていく。ようやく、よし! 食べるぞと思ったら、お色直しで退場するタイミングだった。仕方なく立ち上がってふと横を見たら、ウエーターさんが私の料理を片付けようとしている!
「片付けないでください! 食べますから」。口からポロリと出た。
後で披露宴の映像をビデオで見て笑った。スピーチの間、確かに私は食べていない。しかしその手は、ずーっと箸を握りしめている。隙あらば、食べようと狙っていたのだ。結婚生活は7年で終わったけど、食べることは生きること。私はこれからも、生きるために食べて、ダイエットするのだ。
(漫画家)
【図・写真】披露宴でのドレス姿もエッセイで紹介した(「一条さんちのお献立て」から)
一条ゆかり(18) 弓月光 同期入賞の運命共同体 一緒に夜遊び 助太刀も(私の履歴書)[2025/02/19 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1372文字 書誌情報]
漫画家仲間の中でも付き合いが長くて、運命共同体のような、家族のような存在なのは弓月光だ。「りぼん」の第1回新人漫画賞で一緒に準入選した。同い年で、たまにしか会わなくても、すぐに昔からの関係に戻れる。
デビュー間もない頃は、よくアシスタントをしてもらった。朝の5時に原稿を上げて、そのまま当時の新宿コマ劇場の前にあったボウリング場に繰り出して、マイボールでガンガン投げて、そのまま夜遊びに直行……アホですか、寝なさいよ、である。
弓月には妹が、私には兄がいるから異性と遊ぶことに抵抗がない。弓月は本でも映画でも車でもパソコンでも、徹底的にのめり込むオタクキングだから、私はいろいろ教えてもらっては振り回された。
ステレオが欲しいなぁと言ったら、秋葉原の電気街に連れて行かれて、気がつくと80万円以上のセットを買っていた。20歳の女が初めて買ったステレオは、オーディオと呼ぶものだったらしい。
同じようなパターンで初めて買ったチャリ(自転車)は20万円以上のプジョーになった。買い物用のママチャリを探していたのに、荷台も自転車を立てるスタンドもなくて、ドロップハンドルのチャリ……。確かに黄色くて格好いいデザインだったが……せめてスタンドは欲しかった。
しかも購入した翌朝、当時新宿にあった私の家から、弓月の住む川越市まで、一緒にそれぞれのチャリをこいで行った。私のスポーツ人生の中でも一番根性を必要とした日だ。ヘトヘトになって到着したら、弓月の奥さんに「大変だったね~」と笑われた。
彼女は「ゆかこさん」といって、私のペンネームと似ているものだから、弓月が結婚した時は、相手が私だと一部にデマが流れた。ゆかこさんは、弓月が私と一緒に遊んでいる分には、外泊しても全く心配しないのだ。
仕事では新谷かおる、聖悠紀とともに私の「メカ3兄弟」で、大概のメカを描いてもらってきた。自分でも描けるようにならねばと車のデッサンを練習したが、頑張る私の後ろを弓月が通ってフッと笑ったことがある。ムカッとして描くのをやめた。
弓月の描く、大福のように柔らかそうな少女の絵を私は描けない。でもそうした絵柄から、若い頃の弓月は、少年誌では少女漫画風と言われ、少女誌では少年漫画みたいと言われた。ヒット作が出る前には苦労もあった。
弓月の大ピンチを救ったこともあった。ある時「原稿落ちそうだから助けて」と泣きの電話が。いつものことでしょと思ったが、この時は本当にまずい状況のようだった。
しかしこの日、私は岡山から上京する姪(めい)を東京駅まで迎えに行く予定。結局、当時東村山市にあった自宅から、我が家のコリー犬の蘭丸を車に乗せて東京駅へ。姪をピックアップして高田馬場の弓月の仕事場へ向かった。
さすがにあきれた。一日半後に51ページもの締め切りがあるのに、まだ下描きがチョットだけなのだ。
もう、仕切らせていただきますわ。というわけで、待機していた弓月のアシスタントのほかに私のアシスタントも1人呼んで、弓月には下描きだけやれと命令し、首から上のペン入れは私がやった。アシスタントへの指示もした。蘭丸の散歩もした。巻き込まれた姪も消しゴムかけと、人生初のトーン貼りを経験したのだった。
(漫画家)
【図・写真】2022年に対談した際の弓月光(右)と筆者=小田原 リエ撮影
一条ゆかり(17) 料理 甘酒、おせち…創意工夫 上京して初の買い物は砥石(私の履歴書)[2025/02/18 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1337文字 PDF有 書誌情報]
エッセイ漫画で自分のプライベートを披露するようになって、よく描いたことの一つが料理だ。偏食で、それでも食べることが大好きだから。
幼い頃、食べられる野菜料理はレンコンの酢漬けと、きんぴらゴボウとトマトだけ。あとは、イモとカボチャくらいだった。しかし貧乏な8人家族では、末っ子の私の好き嫌いに合わせた食事など作ってはもらえない。
自分で作るしかない。まずはご飯にふりかけをかけた。次に、生卵をかけてみた。卵かけご飯である。さらに、そのご飯と卵をフライパンでいためてチャーハンに……というふうに、徐々に料理へと発展していった。ちなみにこの連載序盤で書いたように、ご飯は小学校低学年のころから、1人でマキを割って、釜で炊いていた。
当時に比べると随分、いろいろなものが食べられるようになったけど、漬物は依然、全面的にダメだ。ネギもNG。ネギを食べられない日本人がどんなに大変か、想像してみてほしい。ある時、そば屋で出てきた白くて四角いてんぷらを、イカだと思って口に入れたらネギだった。「ギャー!」と店内に響き渡る声で叫んでしまって、本当に恥ずかしかった。
初めて1人で作ったおやつは、なんと甘酒。やはり小学校低学年の時で、自分の小遣いで米を少し買って、炊いて、こうじを混ぜて、カメに入れて布をかぶせてこたつに入れた。でき上がると、少しずつ大切に飲んだ。
兄たちに狙われた。するとこの時ばかりは母が「典子(私の本名)が自分で材料を買って作ったものなんだから!」と、甘酒を守ってくれた。けれども大切に飲みすぎたせいか、発酵が進んでどぶろくのようになって、最後は父に飲んでもらった。
母がどこかから百匹もの穴子をもらってきて、一緒にさばいたのも小学生の時だ。
まな板の上で穴子の目にくぎ状のものを刺して固定する。いわゆる「目打ち」を母に頼まれたのだけど、さすがに怖かった。何匹かやったところで母に代わってもらい、私は穴子をさばいた。
こんな子供時代だったから、中学に上がるころには魚の三枚おろしができるようになっていた。おせち料理も半分くらい作った。おせちといえば、7年ほど結婚していた時、三段重のおせちを用意して、一口カツを三杯酢に漬けたものは特に評判だった。
相当、辛いスパイスカレーにも自信がある。仕事中に、アシスタントの分まで食事を作ることも多々あった。
お菓子作りも好きだが、危険なのでのめり込まないようにしている。アンコが好きで、最近は健康を考えて甘酒でアンコを煮る。安売りのゴボウを見つけると、大量に買ってゴボウ茶を作る。スイカを買うと、白い部分まで無駄なく料理に使う。
そもそも19歳で上京して、初めて買ったものは砥石だった。もちろん包丁を研ぐために。痛々しい19歳だと自分でも思う。
でも誤解しないでもらいたい。私は料理が好きだけど、料理は女の仕事だと言うような男は嫌いだ。
誰がやるかはケース・バイ・ケース、互いに話し合って決めればいいことだ。そんな思いを持って1988年に描いたのが、料理をはじめとする家事全般の腕前がプロ並みの少年を主人公にした「おいしい男の作り方」である。
(漫画家)
【図・写真】初めて甘酒を作った経験も漫画にした(「一条ゆかりの食生活」から)
一条ゆかり(16) 私の中の2人 ペンネームでオンとオフ 自分を客観視 恋愛には不利!?(私の履歴書)[2025/02/17 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1370文字 PDF有 書誌情報]
本名は藤本典子だ。3人の兄の名前が「正徳」「和徳」「光徳」で、全員に「のり」がつくので、末っ子の私にも似たような名前を安易に付けたのだろうと長く思っていた。しかし、兄に娘が生まれ、その名を考えていた時、「藤本典子」はとても良い名前だと分かったそうだ。
とはいえ漫画家にこの名前は堅苦しくて辞書でも作っていそうなので、集英社での漫画家デビューが決まった頃にペンネームをつけた。誰にでも読めて、字が美しく発音が綺麗(きれい)で覚えやすい名前。画数が少ないと、名前がずらっと並んでいても目立つ。そんなことを考えながら決めた。
結果としてペンネームがあってよかった。私の中に「藤本典子」「一条ゆかり」の2人がいることでオンとオフを分けられる。互いに良い影響も与えあえたと思う。
藤本典子は本来、大家族で育った末っ子の甘えん坊で、結構だらしがない。上京したての頃は「こんな甘ったれの私が編集者と交渉したり、アシスタントを雇って指示を出したりするなんて無理だ」と焦ったものだ。
一条ゆかりは、藤本典子がプロデュースする女優のようなもの。一条はこのプロデューサーの指示に従って、欧米のオシャレな文化が香る、ゴージャスな漫画を描く人を演じる。自由人で、お酒も強く、少々非常識なところもあるけれどカッコいい、そんな女性像である。
仕事をサボりたくなることも多いが、そういう時はプロデューサーが「あなたはプロでしょうが!」と厳しく制する。代わりに、仕事が終わるとプロデューサーは休みに入るらしく、解き放たれた私は遊びほうける。だから私は、漫画を描いている最中と遊んでいる時は人格が変わる。仕事は自分を守るものなので、A型気質でひたすら誠実に。
デビュー後しばらくは、貧乏が描けなかった。貧しい家庭で育ったので、貧乏はトラウマで近づきたくない。けれど生活に余裕が出るにつれ、〝貧乏の呪縛〟から逃れられた。作品でいうと、下品なキャラクターを平気で描き始めた「有閑倶楽部」や、ヒロインが貧しくてたくましい「天使のツラノカワ」あたりからだろう。
すると一条ゆかりも、所帯じみた面を表に出せるようになった。好きな料理の話や、自宅ではかっぽう着や作務衣(さむえ)を着ていることなど、普段の生活をエッセイ漫画で描き始めた。一条ゆかりのプロデューサーも「意外な一面も少し読者に見せた方がいい」と考えるようになった。
作家としては、常に主観と客観の両方を持つべきだと思っていた。自分の好みを追求しつつも、常に客観的に、他人の目からどう見えるか。それも、わざわざ考えなくても勝手に身についてしまった。
ただ、こういう生き方をしていると、恋愛の楽しみが結構奪われる。彼氏とベタベタしていても、プロデューサーの「はい! カーット!」という声で「そうだ、明日予告カットの仕事がある。帰ろ」となる。恋愛の醍醐味は溺れることなのに「オトコに溺れる」ことができない。
ある時、新宿の元カリスマホストと対談する機会があり、思い切って相談した。すると「あなたのようなタイプを2人ほど知っていますが、彼女たちの職業は脚本家と小説家です」。なるほど。どれも、自分を客観的に見るクセがつきそうな職業だ。
(漫画家)
【図・写真】自宅での作務衣姿もエッセイで明かす(「不倫、それは峠の茶屋に似ている」表紙)
一条ゆかり(15) 腱鞘炎 徹夜と重圧、体調に異変 2誌ダブルヘッダーがたたる(私の履歴書)[2025/02/16 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1380文字 PDF有 書誌情報]
18で集英社デビューして以来、ひたすら忙しいのはありがたいことだけど、代わりに健康そのものだった体調に異変が出始めた。まず腱鞘(けんしょう)炎との長い付き合いの話から。
1974年の「デザイナー」の連載が終わった頃のこと。「週刊マーガレット」編集部に、当時銀座にあった高級フレンチに連れて行ってもらった。素晴らしいお店で、それはそれは美味(おい)しかったのだけど、80ページもの読み切りの約束を高価なただ飯の圧力に負けて……してしまった。全く、ただより高いものはないと、この時悟った。
その頃月刊誌「りぼん」でも連載があって、ダブルヘッダーをやるはめになり、無理がたたって腱鞘炎になった。
当時の私は「りぼん」の専属として専属料をもらっていたが、その縛りはきつくはなくて、完璧なライバル誌ではなく、事前に「りぼん」にOKがもらえれば、他誌に描いてもよかった。「マーガレット」は「りぼん」と同じ集英社の雑誌だ。
腱鞘炎だが、まず利き腕である左の手首の痛みから始まり、やがて左腕全体が痛くなった。ペンを持つ指と(つな)がる腱(けん)がすべて痛いという状態だ。そして人さし指に力が入らず、フラフラしてペンをうまく支えることができない。
仕方がないので指とペンを縛り付けて固定して描いたりしていた。とにかく左手を休めるために、できるだけ右手を使うようにした。幸い字は左右どちらでも書けるし、簡単な落書きの絵なら右でも描ける。とにかく右手を使うことに専念した結果、右腕も痛み始めた。
以来、さまざまな治療を受けた。75歳になった今も接骨院に通っている。漫画の仕事を休んだおかげでだいぶよくなって、左手の人さし指も少し使えるようになってきた。
腱鞘炎を発症する前から、肩や背中はバリバリだった。20代半ばで、はり治療が効かなくなっていた。腕を真っすぐ上に伸ばせなくなった。エアロビクスに行って鏡を見たら、自分だけ背中が一直線で驚いたこともある。背骨は緩やかなS字の曲線になっているはずなのに……。
月刊誌の仕事が中心で、1カ月の半分を描く仕事にあてていた。週刊誌より楽だと思われそうだが、締め切り前の10日間は睡眠時間が2時間くらいで、最後の2日は徹夜がざら。描き始める前には打ち合わせに取材や資料集め、ネーム(シナリオ)作りなどがあるので、純粋な休みはほとんどないに等しい。120ページ超の読み切りを6カ月連続で描いた時など、徹夜で原稿を上げて、そのまま次の号の打ち合わせに出かけた。
こうした無理が重なった末の腱鞘炎だろうが、私は高校生の時も毎日2~3時間の睡眠で漫画を描いていた。なのに肩こりとは無縁。徹夜がうれしいくらいだった。
もちろん、高校時代は若くて健康だったから平気だったのだろうけど、それ以上に、締め切りも責任もなく、描きたい時に描きたいものを描きたいだけ描いていたからだ。好きなように楽しく描いていたからだと思う。私は料理は好きだが、おさんどんは嫌いだった。おさんどんはやって当たり前、やらなければ嫌がられる。「ねばならない」仕事には、プレッシャーとストレスが莫大にかかる。精神のストレスが肉体をいじめたのだと思う。
仕事のつらさは、労働時間よりもむしろ、責任の重さからくるのではないだろうか。(漫画家)
【図・写真】最近は左手でもペンを持てるように
一条ゆかり(14) 開眼 親・悪役 キャラ作りで暴走 少女漫画からどんどん脱線(私の履歴書)[2025/02/15 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
ゴージャスな高校生の話である「有閑倶楽部」では、主人公の高校生6人に負けないくらい、親のキャラクターづくりが重要だった。
松竹梅魅録(みろく)の父を警視総監にしたのは、大昔に読んだ漫画「まぼろし探偵」を思い出したから。主人公の父親がたしか警視総監だったような記憶が……。覚えてない。
悠理の父の万作は、筒井康隆の短編小説「農協月へ行く」に刺激を受けた。大金持ちの農協ご一行様が宇宙船に乗る話だ。にわか成り金になった一家が巻き起こす騒動を描いた米国のドラマ「じゃじゃ馬億万長者」も頭にあった。
畑仕事が何より好きで、財閥の長でもある成り金で下品な剣菱万作。従来の少女漫画にはないキャラだ。娘の悠理は頭が悪くて大食いで、喧嘩(けんか)も強い暴れん坊。ヨーロッパ貴族が好きで、おしゃれで上品が好きだった私が、まさかこんな話を自発的に描く日が来るとは、自分でも不思議。
初回の時、悪役キャラを、思い切って気持ちの悪いどスケベオヤジに描いてみた。そうしたらアシスタントが「このオジサン見たくない」と嫌がって、絵が見えないように、原稿の上にティッシュを置いてバックを描いていた。ちょっと面白くなってきて、どんどん下品な方向に走り出し、どんどん少女漫画から脱線してしまう。
連載は1981年に季刊誌「りぼんオリジナル」で始まり「りぼん」「コーラス」と雑誌を変えながら、毎月ではない不定期連載のスタイルで2002年まで続いた。単行本の累計発行部数は約3000万と聞いた。
私自身もこの作品で「開眼」した。中でもエポックになった回は、万作が肥桶(こえおけ)の中身を悪者にぶちまけるシーンだ(香港より愛をこめての巻)。これを描いたとき、何かが壊れて目の前がパアアと広がって「いける! もう何も怖くない!」。とうとう自分は無敵で恥知らずの少女漫画家になってしまった、という気持ちになった。
オカルトも、この作品で初めて描いた。「幽霊なんかこわくないの巻」にある、瀬戸内の小さな島に大量の蛇が出るエピソードは、母方の祖母から聞いた話がもとになっている。私が生まれ育った岡山県玉野市の沖に大小の無人島がある。そのどちらかが火事になった時、大量の蛇が移動した。それが「蛇の橋みたいだった」という。これを漫画にすると、ものすごく怖い。
連載開始の頃は、極限までシリアスなドラマだった「砂の城」も描いていたから、「有閑倶楽部」は、いい気分転換になった。暇を持て余した高校生が事件に巻き込まれて、最後に悠理の跳びげりで悪者が倒される。こんなシンプルなアクション・コメディだけど、毎回、美術や宝石、日本文化など何かしらの雑学を盛り込む工夫もしている。
読者の人気キャラは世代によって傾向がある。小中学生は頭が良くて頼りになりそうな清四郎。その上の世代は一緒に遊ぶと楽しそうな魅録。そして結婚、離婚などを経験し酸いも甘いもかみ分けた大人は、豪華で安全なホストキャラ美童の魅力に気づく。
余談だが、今年の1月3日「有閑倶楽部」がX(旧ツイッター)でトレンド1位になった。うっそ~23年前の作品なのに!と、想像もしなかったお年玉に驚いた。
主人公が20年以上も年を取らずに連載が続いたこの漫画は、10代の高校生が大人を手玉に取るから面白いのだと思う。(漫画家)
【図・写真】エポックになった「香港より愛をこめて」扉絵(「りぼん」1985年3月号)
一条ゆかり(13) 有閑倶楽部 反「等身大」の学園 大ヒット 予告を変えられ活劇要素も(私の履歴書)[2025/02/14 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1375文字 PDF有 書誌情報]
少女漫画誌に載るものとしてはドラマが大人っぽすぎた「砂の城」は1979年に、第1部を終えて休載。これとは全く違っていかにも少女漫画らしい「ときめきのシルバー・スター」などを描いてから「砂の城」2部を80年に始めた。完結は81年だった。
私がデビューしたころ、70年前後の「りぼん」の読者の中心は小学生だった。その年齢層が徐々に上がって、中学生や高校生になっても読み続けてもらえるようになった。これは私だけではなく、同じような時期にデビューした多くの漫画家の功績だろう。「りぼん」以外の雑誌でも、少女漫画界全体に新しい作品が数多く生まれていた。
そんな中、70年代後半~80年代に流行した少女漫画に「乙女ちっく」がある。どこにでもいる読者と等身大のちょっと内気な少女を主人公にした学園ものが増えた時代に、私は全く違った連載を始めた。それが、私の過去最大のヒット、81年にスタートした「有閑倶楽部」である。
きっかけは、季刊誌「りぼんオリジナル」での4回の短期連載の依頼だった。担当は漫画家のくらもちふさこさんの叔父にあたる倉持さんで、漫画家に寄り添うとても仕事がしやすい方だった。「砂の城」と同時進行だったので私はシリアスなドラマとは正反対な学園ラブコメディを描こうと思った。
男女3対3の高校生の恋がすれ違っていく恋愛模様のイメージだ。主人公は、昭和の日活映画「太陽の季節」のような、裕福な若者たちでいこう。タイトルは「有閑マダム」の「有閑」という言葉を使いたかったので「有閑倶楽部」とした。
そのように編集者に説明したのに、連載開始前に雑誌に載った予告を見たら「アクション・コメディ」とある。すぐに電話したら、倉持さんは「僕ね、一条さんの『こいきな奴ら』が好きなんです!」「それで、あんな感じの日本版アクション学園コメディなんかいいなぁと……」
確信犯である。でも倉持さんとはいい仕事をしてきたし、この人の「やって!」には応えたくなった。
倉持さんの言った「こいきな奴ら」は「デザイナー」と同じ74年に連載を始めた。霊感が強くナイフ投げの名人でもある少年と、武道の達人の少女の双子、さらにスナイパーとスリを加えた4人で悪を倒す痛快活劇だ。恋愛ナシで少女が男性をぶちのめす場面がたびたび出てくる少女漫画は、当時はまだ珍しかった。
テレビドラマ「スパイ大作戦」やスリ集団の映画「黄金の指」などのイメージだ。スパイものやSFは仕事が終わった後によく見たり読んだりしていた。少女漫画と関係ない世界だから、気分転換になった。でも結局、そこで得た知識を仕事にしてしまった。
「こいきな奴ら」の主要登場人物の名は「クリーム」など、お菓子に関連している。「有閑倶楽部」ではお酒だ。6人の主人公のうち、男子が菊正宗清四郎(大病院の御曹司で優等生)、松竹梅魅録(みろく)(警視総監の息子でヤクザとメカに強い)、美童グランマニエ(スウェーデン大使の息子でプレイボーイ)。女子は剣菱悠理(財閥令嬢で腕っぷしが強い)、黄桜可憐(かれん)(宝石商の娘でセクシー)、白鹿野梨子(日本画家と茶道家元の娘で和の文化に強い)だ。
この作品で、また私は少女漫画の世界をむりやり広げてしまうことになる。
(漫画家)
【図・写真】「コーラス」1998年2月号「有閑倶楽部 君に愛の花束を」から
一条ゆかり(12) 砂の城 「昼ドラ」風 すれ違う恋 嫌いなタイプも描けてこそ(私の履歴書)[2025/02/13 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1333文字 PDF有 書誌情報]
1974年の「デザイナー」の連載でやりたいことをやりきった私は、「あしたのジョー」のラストのように燃えつきた。「今、漫画家を辞めてもいいか」とさえ思った。でも「りぼん」からは「また連載を」と依頼される。
そこで広告業界を舞台にした「5愛のルール」、学園ロマン「ティー●(ハートマーク)タイム」、アクション・コメディ「こいきな奴ら」などを描いた。本来、要領が良くて器用なたちの上飽きっぽいのでアレコレ食いついてしまうが、こんな風に流されていては、そのうちクオリティーを落としてしまうのではないか。
ぼんやりとそんな不安を抱えていた70年代半ば、私は毎日昼ごろに起きて、ご飯を食べながらメロドラマを見ていた。ちまたで「昼ドラ」と呼ばれているものだ。
「え、この展開あり?」「このヒロイン、はっきりしなくて本当にいらつくわ~」など、散々突っ込みを入れているのに、気がつくと毎日見ている。まるでアンチジャイアンツみたいに、文句を言いながらも見てしまう。この現象は興味深いな。こういうメロドラマを作ってみたら面白いかも。そう思い始めた。
それまでの自分は興味のある世界、自分が知っている人物を中心に描いてきた。このやり方で、本当にプロといえるだろうか?
プロというのは、自分の好き嫌いにかかわらず、高いクオリティーを維持する。本音では嫌な企画であっても、読者に「この世界がお好きなんですね」と、勘違いされるほどのものを作る。そういう技術を「プロ」と呼ぶべきなんじゃないか……。
試しに自分が嫌いなヒロインを考えてみた。一応ヒロインなのだから、普通の女子に同調される性格にせねば。そう、私は自分が普通の女子規格から外れている事を自覚していた。
お金持ちの世間知らずで、お嬢様気質のかたくなな女。エネルギーが少なくて、周囲が見えず内に内に入っていくタイプ。相手役は、誠実で真面目な男にしよう。この2人の間にある障害は「身分」と、私の好みである「年齢」にした。女性のほうが16歳上で、ゆえに悩み続けるヒロインである。
タイトルは「砂の城」。何度作っても波に壊されるのに、人間は同じものを作る。同じことを繰り返す。そんなイメージだ。77年7月号の「りぼん」で連載が始まった。
引き離され、再会しても悲しい運命をたどる2人の物語は、ソフィア・ローレン主演の映画「ひまわり」に影響を受けたようだ。
当時はろくに行ったこともないフランスの物語。上流階級が通う学校も出てくる。フランス大使館に「今度、フランスの学校を漫画に描くのですが、新学期がいつ始まるかなど教えてください」と直接行って尋ねた。親切にいろいろ教えていただけた。
ヴィスコンティの映画をはじめ昔の洋画などから影響を受けた私は欧州貴族オタクだった。このころ私が東村山市に建てた南フランス風の家も「砂の城」に登場する。
ヒロインのナタリーと恋人のフランシスのほかにもたくさんの登場人物がいる。誰も悪くないのに、互いにすれ違って傷つけ合ってしまう。それが私の作ろうとしたメロドラマだ。連載中の反響も大きかったが、さすがに「読者の年齢層を上げすぎ」と編集者に言われ、第1部を終えて一旦、休載した。
(漫画家)
【図・写真】「砂の城」より
一条ゆかり(11) デザイナー 「超」がつく特別な作品 夢と憧れにリアル盛り込む(私の履歴書)[2025/02/12 日本経済新聞 朝刊 24ページ 1385文字 PDF有 書誌情報]
人気ファッションモデルの亜美は事故で足が不自由になり、デザイナーに転向する。実業家の朱鷺(とき)のバックアップもあって、間もなく大物デザイナーの鳳(おおとり)麗香とライバル関係になるが、麗香は彼女の実の母だった。さらに恋仲になった朱鷺との真の関係も知った亜美は、自分の愛を貫くべく破滅へと突き進んでいく。
「りぼん」で1974年2月号から連載を始めた「デザイナー」は、読者に人気のある「ファッション界」を舞台に、私の好きな「障害のある恋」をテーマにした物語だ。ファッション漫画は当時もたくさんあったが、あまりに現実離れした設定にこれはないわと思っていた。夢と憧れだけでできているような少女漫画に、私はせめてもう少しリアルを入れたかった。
「少女漫画家なんて、瞳の中に星を入れてバックに花描いときゃいいんだから楽だよね」「タイヤ4つ描いときゃ車なんだろ」。少年誌や青年誌の編集者にバカにされて腹を立てていたのもこの頃で、少女漫画は世の中で低次元のレッテルを貼られていた。
それもあって私は、背景やメカを正確に描くことにも神経を使った。ヒロインの亜美や朱鷺は車を運転し、カーレースもする。こうしたメカはもちろん色々な知識を、漫画家仲間の弓月光、新谷かおる、聖悠紀に助けてもらった。彼らと遊んだ「新宿時代」があったから、のちに「有閑倶楽部」が描けたんだと思う。
「デザイナー」で描きたかったのはヒロインやファッション界よりもむしろ、ヒロインの母の麗香だった。この頃、女が真剣に仕事と向き合って生きるにはあまりにも多くの犠牲を払わなければならなかった。麗香は、子供や家庭を捨てて後悔などしない。のし上がるには「男くらいだますわよ」という態度の女性だ。世間には嫌われるだろうが、何を守りたいのかが明確でブレない。「自分の中のプライド」がはっきりしている。
だから、タイトルは「プライド」にしようかとも思っていた。でも、最終的に小学生の読者にも分かりやすいタイトルを選んだ。そして30年近くたって、私は「プライド」という別の漫画を描く。
連載中は楽しかった。ネーム(セリフやコマ割りなど)が自分の中からあふれて止まらなくて、これも良いけどこっちも良いし、どのセリフを採用しようか、困っちゃうな~と楽しく迷う日々だった。
読者にウケる、ウケないはどうでも良かった。自分の好きな世界を誰にも邪魔されずに描く。集英社はたぶんそう思っていないだろうが、今まで結構素直に言うことを聞いてきたのだから、1回くらいわがままをさせてもらおう。そういう気持ちだった。ところが連載第1回から大変な人気で、4回のはずだった連載をのばしてもらえた。
もちろん、ある程度の読者サービスは考える。プロとして、読者が理解できないものや、不快になるものを描くことは避けたい。
それでも、ひたすらファンのために自分を殺して仕事をし続けるのはもっと避けたい。「デザイナー」は、極端な我慢をしなくても結果は出るということを教えてくれた。真面目な性格と、自分の人生を好きにしたいという気持ちの板挟みで、長い間困っていた私が解放された。
「一条ゆかりの絵」の方向性もこの作品で決定づけられたと思う。「デザイナー」は私にとって「超」がつくほど特別な作品だ。
(漫画家)
【図・写真】「りぼん」1974年8月号の「デザイナー」扉絵
一条ゆかり(10) 手応え たちまち人気 むしろ不安 基礎学び 徐々に自分を解禁(私の履歴書)[2025/02/11 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1386文字 PDF有 書誌情報]
私が若手の頃、1970年代はじめの少女漫画界で編集者が喜ぶ代表的なストーリーは、ロマコメ(ロマンチック・コメディ)だった。確実に読者が喜ぶとアンケートで分かっている、安全パイなのだ。こうしたものも描きながら、私は自分にしか描けないものを探っていた。
自分の好みは少し歪(ゆが)んでいるので、正直メジャー人気は無理だなと思っていたが、不思議なことに、人気はすぐに出た。それが想定よりも早かったので、不安になった私はデッサン教室に行き、神田の古書店でドラマや映画のシナリオを買い込んで読み込んだ。一般人はどんな話が好きなのか、王道のストーリー展開を研究してみた。安心して読めて私にはつまらないが、自分のことを、楽譜も読めないのにデビューしてしまったロック・ミュージシャンのように感じていたので、まずは基礎を押さえようと思った。
徐々に自分が本来好きな、シリアスな漫画も描かせてもらえるようになった。手応えを感じた作品のひとつが「雨あがり」だ。父の再婚相手に恋してしまう青年の物語。こうした「なさぬ仲の恋」に、私は引かれる。
父に逆らう少年やヒッピー、作家を夢見る少女の物語である「風の中のクレオ」では、自分なりに少女漫画界に対して「学生運動」をした。今読み返すと恥ずかしい所もかなりある作品だけど、「女はこうあるべき」という価値観に縛られないヒロイン像を描きたかった。
72年には「りぼん」の別冊ふろくで大型の読み切りを6カ月連続で発表した。題して「一条ゆかり全集」。私は姉弟の恋、同性愛、戦争や(米国のSF作家のレイ・)ブラッドベリ風など、当時の「りぼん」になかった設定に挑戦した。
しかし、一部に抗議の手紙が届いた。別の雑誌で描いていた大島弓子さんのファンを名乗る読者から「大島作品と設定が同じだ」。萩尾望都さんのファンからは「何ページの何コマ目の男の子が寝ているポーズが、萩尾作品と同じだ」とか「ブラッドベリ風は萩尾望都の特権」とか。
大島さんや萩尾さんはカリスマ的な人気がある漫画家。私も好きで読んでいたけど、盗作などあり得ない。というか、男がベッドで寝ているポーズなど、誰が描いても似たり寄ったりじゃわい! と言いたかった。
ものすごく不愉快だったけど、どうしてこんなことを言われてしまうのか? 自分が安全パイの中途半端な作品を描いているからではないか?と考えた。その頃の私は編集部のリクエストにそこそこ応える良い子。その結果がこの始末かと悟った。
そんな時「りぼん」から4回連載の話があった。そこで私は大胆な提案をした。
「この連載は、打ち合わせはしません。ネームも見せません。『りぼん』の規定は知っているし、私もプロなので最低限の良識は持ってます。連載途中でダメだと思ったら、切られてもいいです。私は一度ぐらい誰にも邪魔されず、描きたいものを好きに描きたいんです」。そこまで言ったら、担当さんは「わかりました。好きにしていいですよ」。やったぁ!
漫画家は、ネームと呼ばれるプロットを担当編集者に見せて、直されて、OKが出たらペン入れをするのが普通だ。打ち合わせもなく「自由に描く」というのは私が知る限り、聞いたことがない。これでダメなら辞めてもいい。そんな覚悟で74年に連載を始めたのが「デザイナー」だ。
(漫画家)
【図・写真】「風の中のクレオ」単行本後編の表紙
一条ゆかり(9) 引っ越し難民 夜中に仕事、大家は認めず 歓楽街のビルに落ち着く(私の履歴書)[2025/02/09 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1384文字 PDF有 書誌情報]
東京での初めての住まいは御茶ノ水の4畳半、月7500円の下宿。隣は学生運動をしている女子大生。私より狭い3畳間だった。
デビューして3年は、いろいろな作品を乱打しようと思っていた。好きなジャンルに才能があるとは限らない。自分の好みと自分の才能の接点を知りたかった。それをちゃんと把握した上で、7年目くらいで個性を確立しよう。そんな計画を漠然と立てた。
そこで「りぼん」別冊のような雑誌だった「りぼんコミック」で読み切りを何本も描いた。嬉(うれ)しいことに人気は上々で、徐々に忙しくなった。
すると、大家さんから「男を呼んで夜中まで騒いでいるのはねぇ」と苦情がきた。弓月光がアシスタントに来て夜中まで仕事をしていただけだ。男性と騒いでいたのは女子大生の部屋では?
そう説明しても、漫画家の仕事は理解不可能らしく「夜鷹(よたか)みたいに夜働かないで昼働きなさい」。仕方なく新宿・富久町の1Kのビルへ引っ越し。すぐに隣の1DKが空いたのでまた引っ越し。そこも手狭になって、高齢の女性が1人で暮らす木造家屋の2階の2DKを借りた。私のほかに、2人のサラリーマンがやはり2階で暮らしていた。
庭があって池に鯉(こい)がいるような素敵(すてき)な雰囲気が気に入っていたのだが、ここでも大家さんに「夜中に椅子を引く音が耳障りだ」「夜中にトイレや風呂を使う水音もする」などと言われた。
男のアシスタントが来て、女2人と一緒に仕事をしているだけだ。静かにしようと、椅子をそうっと動かし、風呂も夜中には入らないようにしていた。でもある日、台所にベルがついてた。仕事をしてたら突然ベルが鳴った。うるさい時に大家が鳴らすためのベルだった。さすがに限界。
やがて地下1階はホストクラブ、1階が喫茶店、2階に通販会社が入っているビルの3階に引っ越した。音は下にも響くが1、2階は夜はいない。あ~やっと夜に仕事しても怒られない。表はうるさい明治通り、裏は歌舞伎町ホテル街。飲み歩いて朝帰りしたら、地下のホストのお兄さんにお疲れさまって言われた。
弓月光が、夏場のエアコン目当てに私の部屋でゴロゴロしていても、誰も噂話などしない。隣の人の名前も知らない干渉のない、都会暮らしの良さ。やっと私はオアシスを見つけたのだ。
話は戻るがデビューしてすぐのある時、編集長の机の横に「データ」のようなものを見つけた。人気投票だという。「見たいです」「じゃあ、結果がいい時に教えよう」「え? それって変。いい時はそのままやっていればいいんだから、対策を練るために悪い時の方が知りたいです」
一条ゆかりの商品価値はどのくらいか、私が知らないのはおかしいし、人気があれば制約を受けずに描きたいものが描けるはず。私には人気が必要なので、頑張るために教えて欲しいと説得した。
結局、他の作家を含めたアンケート結果をすべて見せてもらうようになった。小学生、中学生など読者の年齢別に、どの作品が人気なのか分かる。何度も見るうち、読者の興味と好む展開が想像できるようになった。とりあえず「恋」と「ファッション」は必須。読者に媚(こ)びる気はないとしても、読者の興味と、自分の興味の接点を見つけることはできるように思えた。
(漫画家)
【図・写真】「りぼん」で初めて単独で表紙を描いた(1970年2月号)=明治大学現代マンガ図書館蔵
一条ゆかり(8) 大雪の中上京 「古い」編集長に脳内沸騰 自分の持ち味見つめる(私の履歴書)[2025/02/08 日本経済新聞 朝刊 44ページ 1437文字 PDF有 書誌情報]
「りぼん新人漫画賞」で準入選したものの、高校卒業後、1年ほどは地元岡山にいた。そして、集英社の「りぼん」の依頼で何本か描いた。
編集者に「何か描きたいものはある?」と聞かれて「ありません」と答えた。「新人はネタをストックしておくものだよ」とあきれられたが、古いネタより今描きたいネタを探した方がいい。役に立つかもと取っておいたカビの生えた考えは、結局ほとんど捨ててしまう。今が大事だ。
とはいえ、そんな生意気な発言より仕事が欲しい。ちょっと考えた担当は、私に「原作もの」を依頼した。四日市ぜんそくで入院中の女の子と窓にやってくるハトとの心温まる物語。四日市ぜんそく 子供 入院中 ハト…か…。とにかく頑張って半分以上、ペン入れまでしたが「やっぱり君には合わないみたいだな。やめようか」といわれた。編集者を殴ろうかと思った。
人気のあったGS(グループサウンズ)を主人公にした漫画も描いた。この原作が自分としては面白くなくて、地元の漫画友達に主人公を描かせ、新人のくせに凄(すさ)まじい手抜きをしてしまった。後から猛烈な自己嫌悪が襲ってきて「二度とこんな投げやりな仕事はしない」「どうしてもやりたくない仕事はやらない」と固く心に決めた。私の最大の黒歴史であるこの作品は、単行本にも収録していない。
次にバレーボール漫画の連載の話がきた。新人には夢のような話だ。スポーツは私もやっていたし、野球漫画も読むのは好きだが描くのはイヤ。だいたいクラブ活動に人生は懸けられない。私はプロに、匠(たくみ)になりたいと願う人間なので、泣く泣くお断りした。
そして1969年、ついに上京した。この日の東京は記録的な大雪で、新幹線が4~5時間も遅れた。特急料金が返金されたのはうれしかったが、タクシーは長蛇の列で、1時間待っても乗れない。雪に足をとられて何度も転びながら、神保町の集英社までたくさんの荷物を持って歩いた。日曜で誰もいない。仕方なく、御茶ノ水の下宿までまた歩いた。ようやく着いたら、配送のトラックが雪で足止めをくらって、布団も何も届いていない。暖房器具も無い。
部屋の中でコートに身をくるみ、ガタガタ震えながら声を上げて泣いた。大家族で育った私は「1人」の意味を初めて知った。
翌日には荷物も届き、ケロッと立ち直った私は集英社にあいさつに行った。すると「りぼん」の編集長が「あ、きみが一条さん? なんか人気あるんだってね」「僕はね、キミの漫画って、よく分からないんだよね」「それにしても、もりたじゅんはいいよね。いやあ、僕は好きでねえ」
希望に胸を膨らませて上京した集英社専属の若手に、このおっさんは何を言うのか。「おまえは頭が古いからわかんねーんだよぉ。編集者として最低だ!」。脳内沸騰で怒りまくった私は、もりたじゅんちゃん個人に対して恨みは全く無いけれど、彼女とは違うものを描こうと決めた。
自分の好き嫌いばかりを見つめていた私が、ますます自分の個性、自分にしかできないもの、自分のアイデンティティを考えるようになった。編集長の「よく分からないんだけど」という言葉は、うれしくもある。人がやっていないことをやっているという自負につながるからだ。
そして御茶ノ水の部屋からは、間もなく出ることになった。漫画家は家探しも苦労する。そんなことも、次回お話しよう。(漫画家)
【図・写真】弓月光氏とともに準入選。その結果を伝える「りぼん」1968年1月号(明治大学現代マンガ図書館蔵)
一条ゆかり(7) 「りぼん」に応募 「別マ」から寸前に変更 弓月光と共に準入選(私の履歴書)[2025/02/07 日本経済新聞 朝刊 38ページ 1363文字 PDF有 書誌情報]
高校の修学旅行は東京だった。1967年。岡山県玉野市から東京に出るチャンスを得た私は、アドバイスをもらっていた編集者のいる講談社に顔を出すことにした。修学旅行の1日を自由行動に無理やりしてもらった。商業高校で一番大切なのは就職。これは私の就職活動! 粘った私は奇跡の1日を手に入れた。
文京区音羽の講談社に着き、近くの喫茶店で編集者と話していると、高校生でデビューして3年ほどたった里中満智子さんが現れた。
編集者が里中さんに私を紹介してくれた。聞けばアシスタントを探しているという。「ならば高校卒業後に私を」と約束をとりつけた。これで東京に出られる。心の中でガッツポーズを決めた。
とはいえ、私は講談社でいつデビューできるか、微妙な立場にあった。そんな私にいつもアドバイスをくれた編集者は「君もうまくなってきたから、どのくらい通用するか他(の出版社)にも(漫画を)送ってみたら?」と言う。
ちょうど、32ページの作品を仕上げたところだった。その原稿「雪のセレナーデ」を、集英社の「別マ(別冊マーガレット)」に送ってみよう。そう思って、原稿を封筒に入れ、郵便局に持っていく途中で、いつものように、消防署のそばにあった貸本屋で立ち読みをした。
この貸本屋では時々、手伝いもしていた。毎日のように通うものだから、店主が「少し手伝ってくれたら、店の本を読み放題にしてあげるよ」と言ってくれたのだった。店主の代わりに店番をして、借りた人の名前や書名などを帳面に書き付けた。
話が横道にそれたが、私が32ページの原稿を別マに送ろうとした日、貸本屋には同じ集英社の「りぼん」の表紙に、水野英子さんの名があった。
「え、水野英子といえば『マーガレット』でしょ!」。驚いて開くと「ハニー・ハニーのすてきな冒険」の連載だった。さらにページをめくると「第1回りぼん新人漫画賞募集」の告知があった。しかも、1等にあたる賞の賞金が「りぼん」20万、「別マ」10万。正直「りぼん」は子供すぎてちょっと嫌だったけど、水野英子+10万円は魅力的すぎる。
1位になれなくても、佳作の5万円なら手に入るかも。そうしたら、また東京に行けるかもしれないのだ。
結局、貸本屋を出た私は文房具店へ行き、封筒を買って「りぼん」の宛名を書き「雪のセレナーデ」を入れ、郵便局に向かった。結果は、同い年の弓月光と共に準入選。つまり1位なしの2位。賞金は10万円だった。
授賞式で学校の制服を着て上京した。弓月も高校の制服だった。彼の絵は、兄たちの少年誌で見たことがあった。でもその時の名は弓月ではない。「ひょっとして、本名は西村?」。その通りだった。代表作「甘い生活」を昨年とうとう完結させた弓月は、以来、ずっと大切な戦友だ。
東京の高級ホテルでのパーティーでは、弓月のほか、佳作に選ばれたもりたじゅんちゃんも一緒だった。彼女は後に「俺の空」などの本宮ひろ志さんと結婚する。
2次会のホテルのラウンジで、編集者が「好きなものを頼んでいいよ」と言う。「本当にいいんですか?」と確認した。2度、念押しした。それでも皆、いいよと言うので「レミーマルタン」。1番高い飲み物だったからだ。周囲はあぜん。その様子を見た弓月は「俺もそれを」。
(漫画家)
【図・写真】「りぼん」でのデビュー作
一条ゆかり(6) 生意気盛り 授業中 漫画描き続ける 教師ににらまれた高校時代(私の履歴書)[2025/02/06 日本経済新聞 朝刊 40ページ 1358文字 PDF有 書誌情報]
若い頃から「生意気」と言われ続けた私だけど、中でも高校時代が1番トンガっていたと思う。岡山県玉野市の商業高校時代である。
入学早々、将来の希望と計画を書くことになり、「ここは就職のための学校だけど、私は漫画家になる予定なので就職活動は自分でやります。どうか私の邪魔はしないでください」と宣言し、授業中はずっと漫画を描いていた。
自分でもかわいげがないと思う。教師が自分をあてようとしている時だけ気配を察して授業を聞き「藤本、どうだ」と声をかけられると、きちんと答えた。説教する気満々の教師としては、さぞや気分が悪かったろう。
いらだった教師が漫画を描いている私の眉間に投げつけたチョークを、キャッチしたこともあった。元ソフトボール部だったので、体が勝手に反応してしまった。
こういう時はチョークに当たって「すみません」と頭を下げておけばいいのに、私はワナワナする教師に追い打ちをかけるように「先生、落ち着いてください」と余計な一言。私の机をバーンと蹴って、教師は去って行った。
一部女子生徒にもにらまれていた。カミソリ入りの手紙を受けとったこともある。それも2回も。
同じ高校に通っていた兄の友達はモテグループで、1~2年生からすれば、いわゆる憧れの先輩たちだ。学校から5分の我が家に、彼らはたまに遊びに来ていた。朝、彼らと出会うと「おうチビ、一緒に行こうぜ」などと私の隣を歩いて登校するものだから、女子たちの怒りをかったようだ。汚い字で書かれた私宛の手紙は、中に固いものがあるので「カミソリだったりして~」と冗談めかして開封したら、本当にカミソリだった。左手で書かれたであろう内容は、私への悪口と妬み嫉妬。
幸いケガはなかったが、頭にきた私はその手紙を学校の掲示板に貼り出そうとした。犯人が、はがしに来たときにつかまえる算段だ。でも「これ以上、敵を増やさないで」と、友人に止められた。
週末はゴルフ場でキャディーのアルバイトをした。漫画の画材を買ってとは親には言えなかった。忙しくて睡眠時間は1日3時間くらい。それでもテストの順位は、学年300人くらいで2桁を維持した。99番までに入っておけばギリギリ母の怒りを回避できるという私なりの計算で、平均50番くらいだった。
1960年代半ば。学生運動が盛んな時代で、進学校に行った友人と集まると「体制が代わったら、おまえは真っ先に潰されるぞ」と言われた。漫画家は少年少女からお金を巻き上げる、よろしくない職業と思われていた。彼らは共産主義を信じていた。「全ての人間がガンジーとマザー・テレサだったらアリかもだけど、人よりいい思いをしたい人間がいる限り机上の空論だと思う」と言ったら、黙った。根性なし。
漫画では少し焦っていた。貸本の原稿料だけでは生活できない。やはり雑誌連載を持たないと。そう考え始めた頃、同世代が東京の少女漫画誌で続々とデビューした。里中満智子さん、大和和紀さん、美内すずえさん……。
私も講談社の「少女フレンド」の新人賞に応募すると4位で、編集者と文通が始まった。技術だけでなく「編集者がこう言うときは、たいていダメだという意味だよ」など編集者の本音や漫画家の心得を教えてもらえて、すごくありがたかった。
(漫画家)
【図・写真】高校生になる直前の頃
吉田義男さん死去 阪神元監督、初の日本一 91歳[2025/02/05 日本経済新聞 朝刊 34ページ 656文字 PDF有 書誌情報]
プロ野球の阪神タイガースで名遊撃手として活躍し、監督としても球団初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日午前5時16分、脳梗塞のため死去した。91歳だった。阪神球団が4日、発表した。(評伝をスポーツ面に)
京都府出身。1953年、立命館大を中退して阪神に入団した。新人から遊撃でレギュラーの座をつかみ、66年まで14シーズンにわたって定位置を守った。身長167センチ、体重56キロと小柄ながら抜群の運動センスを誇り、「牛若丸」の異名で人気を集めた。
守備範囲は広くて強肩、俊足。走塁、バントの名手としても知られた。67年に二塁手に転向し、69年に現役引退した。
現役引退後、75年からと85年からの各3シーズン、97年から2シーズンの通算8季にわたり阪神の監督を務めた。85年にはバース、掛布、岡田の強力打線を擁して21年ぶりのセ・リーグ優勝、さらに日本シリーズで西武を破って日本一になった。
89年から7年間は渡仏し、パリでクラブチームと、フランス・ナショナルチームを指導した。
現役時代は54年、56年に盗塁王、55年に最多安打。セ・リーグのベストナイン遊撃手には9回選ばれた。通算2007試合、1864安打。背番号23は阪神の永久欠番。監督通算484勝511敗56分け。85年に正力賞を受賞し、92年に野球殿堂入りを果たした。
また、日仏友好の功績をたたえられて94年に外務大臣表彰、97年にフランス・スポーツ大臣賞を受賞した。
2008年6月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。
一条ゆかり(5) 貸本デビュー 高校2年で自作が掲載 「生きていていい」喜びに浸る(私の履歴書)[2025/02/05 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1378文字 PDF有 書誌情報]
「こんなポンチ絵なんか」
幼い頃から母に何度こう言われただろう。中学生になって、ますます漫画に夢中になった私を、母は全く認めなかった。
母にとって、漫画家など最底辺のさらに下の職業だった。1960年代は漫画が「悪書」と公然と批判されていた。私が育った岡山県玉野市のような田舎では、都会以上に、漫画家を職業として認めてもらうのは難しかったと思う。しかも母は、瀬戸内の名家に生まれ、以前は裕福だったからなのか、プライドが高く、差別意識も強かった。
母の機嫌を損ねないためにも、優等生でいようと頑張った。勉強もスポーツも、成績はよかった。何かひとつでもミスをすれば、すべて「漫画のせい」と言われたからだ。
「デザイナー」という私の漫画に「私がなりたいのは常にトップよ それ以外なら最低も同じだわ」というヒロイン、亜美のセリフがあるが、これは母の言葉がもとになっている。トップ以外は認めない。そんな人だった。
高校受験が近づいた。地元の進学校である県立高校に入れそうな成績で、母と教師と私による1度目の三者面談では「県立」で意見が一致した。しかしその後、この高校に進んだ優秀な先輩の話を聞くと「宿題以外に毎日3時間は勉強しないと授業についていけない」。困った。それでは漫画を描く時間がない。
人生でこんなに悩んだことは無いというほど悩んで、私は漫画を選択した。2度目の三者面談で「私1人で大丈夫」と母をだまし「藤本さんは県立よね?」と確認する教師に「商業高校に行きます」。
私は勝負に出た。「2つ上の兄が商業高校に通っていて、あと1年たって卒業したら岡山を離れます。残りの1年間を大好きなお兄ちゃんと同じ学校で過ごしたいんです!」「でもお母さんは?」「はい。母も承知しています」。堂々とをついた。
事の次第を知った母の怒りは私の想像を超えていた。「もし落ちたら、児島に行きなさい」。児島というのは、学生服の工場がある町。そこで働けということだ。
受験に失敗したらどうしよう。人生で、これ以上ないというくらい追い込まれたけど、無事合格。入学後は学校には失礼だが、授業中ももちろん漫画を描いた。一応、教科書やノートで漫画原稿を隠したり、教師の死角に入りやすい、教壇の真ん前の席に座ったりしていたが、バレバレだったろう。教科書も学校のロッカーに入れて、通学カバンの中は弁当と漫画の道具だけだった。
貸本屋にも毎日通った。この頃、若木書房という出版社が貸本専用の漫画誌を出していて、一冊の後半部分に新人の作品を載せていた。そこに原稿を送ったら「ページ数を調整して、ココとココを直して再度送ってください」と連絡があり、その通りにしたら、見事掲載。高校2年の時「風車」という本に、本名の藤本典子の名で初めて自作が載った。「雨の子ノンちゃん」というタイトルだった。
何も持っていなくて不安だった自分が、ある日突然「君は生きていていいんだよ」と世間に存在を認められた気がした。うれしくて、うれしくて、うれしくて、ご飯を食べながら本を開き、寝る前にもまた開いた。原稿料は確か5000円。50ページ近い漫画にかけた労力を思うと、とても食べていけないと思った。それでも、漫画家になるという決意はブレなかった。
(漫画家)
【図・写真】貸本に初めて載った自作(明治大学現代マンガ図書館蔵)
一条ゆかり(4) 空気を読む子 母の「お気に入り」へと努力 先生の失言に吹っ飛ぶ畏れ(私の履歴書)[2025/02/04 日本経済新聞 朝刊 36ページ 1328文字 PDF有 書誌情報]
幼いころ、長屋や小さなアパートでの家族8人での暮らしは、貧しくても険悪ではなかった。皆温厚で、怒鳴り合いのけんかはなかったが、こんな環境は私を早々に「空気を読む子」にしたと思う。
全員が同じ部屋にいるので、身の安全のために機嫌の悪い人からできるだけ離れ、機嫌のいい人のそばにいるようにした。一番の安全地帯は家族のボスである母の傘下なので、私は母の「お気に入り」になろうと努力した。
自分などいない方が、食いぶちが減っていいのかもしれない。そんな風にも感じていた私が、初めて人から褒められたのが、絵だ。
自宅の前の道路に絵を描いていたら、褒められた。小学校でも同級生が「すごいね、また描いて」などと喜んでくれた。うれしくて調子に乗って、努力してまた上達した。
漫画も読み始めた。貧乏なのに、母は兄たちと私に月1回のぜいたくとして漫画雑誌を買ってくれた。私は「なかよし」を買ってもらった。兄の少年誌も読んだ。やがて、手塚治虫さんの「リボンの騎士」や、手塚さんと同じ「トキワ荘」で暮らした唯一の女性漫画家、水野英子さんの「星のたてごと」などのファンになった。
子供向けの海外文学全集も読んだ。欧州の貴族や、世界をまたにかけるようなグローバルな物語が好きだった。岡山の田舎の貧しい現実から逃れたかったのだ。水野さんはこの頃から、海外の神話や伝説をもとにしたスケールの大きな物語を描いていた。
やがて、学校の授業で描く絵までが漫画風になった。風景を写生すれば、自分が醜いと思うものは省く。男性の石こう像を、細い首のイケメンに描いて嫌みを言われ叱られた。美術教師にとって、漫画は絵画ではなく底辺の落書きなんだろうなと思うと、悔しかった。
自意識過剰でウジウジした子でもあった。万が一、違っていたら恥ずかしいと思い、授業中に手をあげることができない。教師から「藤本さん」とあてられれば仕方なく答える。正解だったのでホッとすると先生から「分かっているのになぜ手をあげないの?」と言われ、黙る。
もし間違っていたら、先生はこう言うだろうなどと推測できるので言いたくない。小学校低学年の私にとって先生は怖くて立派な存在で、逆らってはいけないと思っていたのだ。
そんな私に転機が訪れる。
小学5年の時だ。先生に用を頼まれて、イヤイヤ職員室に入ったら、男性教師2人のひそひそ話が聞こえた。若い先生と、中年の先生の声だ。私が常に周囲の様子に注意をはらう子供だったから、聞こえた声だと思う。
「いいケツだなあ」。そんな言葉が耳に入った。エロチックな女性の写真が載っている雑誌を見ていたようだった。職員室で、教師が、いいケツ……はあぁ……。
神聖な存在である教師のイメージが、ガラガラと崩れた。「なあんだ、先生だって、普通の男と同じなんだ」
以来、先生にもハキハキ意見を言えるようになった。大人が怖くなくなって、徐々に生意気になった。
また、この頃になると、絵を描いて漫画雑誌にカットを投稿すると、百発百中というくらい、載せてもらえるようになった。「私って絵がうまいんだな」「漫画家になれるんじゃない?」。徐々に調子に乗った。
(漫画家)
【図・写真】小学生の頃。姉が晴れ着を着せてくれた
一条ゆかり(3) 一変した生活 誕生前後に差し押さえ 姉らと異なる「おしん」な日々(私の履歴書)[2025/02/03 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
私が生まれて2カ月後に「家中に赤い紙が貼られていた」と、10歳上の長姉、泰子は記憶している。借金で財産が差し押さえられていたのだろう。私の誕生と前後して裕福に暮らしていた家を、夜逃げ同然に出たと聞いた。母は私を堕胎することも考えたが、祖母が止めたという。
私は1949年9月19日、岡山県玉野市で生まれた。姉姉兄兄兄と続く兄姉(きょうだい)の末娘で、典子と名付けられた。本名は藤本典子。
貧しくなったとはいえ、私の最初の記憶は楽しいものだ。母方の祖母が暮らす海のそばの小さな二階屋に家族で身を寄せた。海で遊んで、スイカを食べて、真っ黒に日焼けした。五右衛門風呂に入って、やけどをするから風呂釜にもたれてはいけないと注意されたのに、うっかりやってしまって「アチチ」となったのもいい思い出だ。
それにしてもなぜ、父は財産を失ったのか。祖父が死んで、第2次世界大戦が起きたことが大きい。戦況の悪化で日本軍は国民に金属などを供出するように求めたが、父は正直すぎるほど協力した。
加えて父親(私の祖父)の2人目の妻と折り合いが悪く、すったもんだの末、あろうことか財産を放棄した。借金の保証人にもなったという。お人よしのボンボンで、いつも人にたかられていた。自分は少ししか飲まないのに、酒の席ではどんどん人が集まって、全員の酒代を払った。
裕福だった頃、長姉と1つ下の姉、嘉子にはそれぞれねえやが付いていたらしい。ねえや……ちょっと書いてて腹が立ってきた。家にはピアノもあった。当時の玉野でピアノを持っていたのは我が家ともう1軒、あとは学校だけだったという。
桃の節句の写真が残っている。母の膝の上にいる姉より大きな人形が飾られている。背後のひな人形や、天井からつるした飾りも豪華だ。何もなかった私のひな祭りとの違いにびっくり。漫画「有閑倶楽部」にある、主要キャラクターの一人の美童が市松人形に襲われるエピソードは、この写真からイメージした。
さて我が家は、祖母の家の次に長屋に越した。よく時代劇に出てくる長屋と同じ造りで、細長い家の両端に共同の水道があって、部屋は6畳と2畳、そして小さな台所。ここで父母と6人の子供、計8人が暮らした。
母はいつも働いていた。結婚前は教師で、日本舞踊や三味線やピアノもできたから、それらを人に教える仕事や、行商などもやっていた。加えて家事もあった。子供時代、母が横になっている姿を見たことがない。
そして私は「おしん」になった。NHK連続テレビ小説「おしん」の子供時代である。長屋から平屋のアパート(6畳と2畳と2畳)に引っ越した小学生の頃から、母の下働きとして、1人でマキを割って釜でご飯を炊いた。姉たちは帰りが遅く、兄たちは家事をしない。母に抗議すると「男は台所に入るもんじゃない」。
保育園を2年通い、友達は幼稚園に行くのに私は行けなかった。幼稚園は下校時間が早いため、保育園を3年行けと言われ嫌だった。結果、引きこもりを選び、家族の誰かが帰ってくるまで1人、家の前の道路で、ろう石で絵を描いた。すると徐々にギャラリーが増えて「上手!」「お姫様描いて」などと褒められた。これが、後に漫画家になる私の原点かもしれない。
(漫画家)
【図・写真】裕福だったころのひな祭りでの母と姉
一条ゆかり(2) 父は王妃様 世間知らずのお金持ち しっかり者の母が支える(私の履歴書)[2025/02/02 日本経済新聞 朝刊 28ページ 1361文字 PDF有 書誌情報]
「父はマリー・アントワネットみたい」と、私は思っていた。
裕福な家に生まれたらしい。瀬戸内海に面した、今の岡山県玉野市。旧三井造船の創業の地である。祖父がここで造船関連の会社をおこし、大きくした。父、藤本清はその長男だった。
祖父は仕事も遊びもガンガンのエネルギッシュな人だったという。関西各地の花街へ豪遊の旅に出ることもしばしば。父もハイカラで、英国の生地でスーツをあつらえ、靴はオーダーメイドだったとか。モダンボーイである。15の時から芸者遊びをして、マージャンとビリヤードが上手だった。いかにも100年前の日本の富裕層である。
東京の立教大学を中退。後継者である息子がお人よしで世間知らずであることを不安に思った祖父は、しっかり者の嫁を探した。おめがねに適(かな)ったのが母、薫だ。旧姓は村上。中世の瀬戸内海で一大勢力を誇った海賊、村上水軍の末裔(まつえい)だという。
母も革靴を履いて自転車に乗り、テニスもやるモダンガールだった。お茶やお花、三味線、日本舞踊に都々逸、ピアノなども習い「娘の武芸十八般を身につけたわよ」と豪語していた。岡山の師範学校(現代の教育大学)を出て、結婚前は小学校の教師をして、株で財産を失った家族の生活を支えていた。一方で、若くして目を患い、視力が弱かった。
見合いの席は料亭で、父は白い麻の三つ揃(ぞろ)いにパナマ帽。すらりと背の高い父を、母は一目で気に入った。ともに明治末期の戌(いぬ)年生まれ。お金持ちのボンボンと名家の娘の結婚は、地元で新聞記事になるほど話題だったそうだ。
父は、祖父の会社でボーッとしているだけなのに、かなりの給料をもらえたらしい。働けよ。
しかしそんな暮らしがやがて一変する。私が物心ついた頃には、我が家は借金漬けで、今日の食べ物を心配するありさまだった。母は、自分の着物など売れるものは何でも売った。そしてよく大量のそうめんを買ってきた。私を含めて6人の子供に食べさせるには、当時、米を買うより安上がりだったのだ。
周囲も心配したのか、近隣の少し裕福な家から、2歳上の兄を養子にしたいという話があった。1人では寂しいだろうから、妹(つまり私)も一緒にどうかと。母は断った。養子に行けば今よりマシと期待していた私は母に「え~何で断ったの?」。殴られた。母にぶたれたのは、これを含めて人生で2度だ。
こんなこともあった。ある日、母が「お金が無い。どうしよう?」と焦っていた。すると父は平然と「金が無いなら銀行に行けばいいだろ」。
何もないのに銀行に行けばお金を引き出せるとでも思っているのか? この頃5~6歳だった私はすっかりあきれた。私が父を王妃マリー・アントワネットだと思うのは、この日の記憶からだ。
誤解のないように言えば、子煩悩で優しい人。友達にするには最高の人だが、夫にするには正直事故物件レベルだと思う。
後年、家の中で唐子(からこ)の描かれた豪華な大皿を見つけた。これは何かと母に尋ねると「端が欠けていて売れなかったのよ」。ほかにもパーコレーターというのか、コーヒーを淹(い)れる道具があった。「当時は田舎でそんなものを使う人がいなくて、やっぱり売れなかった」と母。苦労がしのばれた。(漫画家)
【図・写真】父母(奥)、祖母(手前右端)と姉・兄たち
一条ゆかり(1) 真面目な不良 少女漫画 ギリギリを攻め 性描写もアクションも描く(私の履歴書)[2025/02/01 日本経済新聞 朝刊 46ページ 1352文字 PDF有 書誌情報]
バイクの免許を取ったのは高校2年の時だった。漫画を描いて徹夜をした明け方、よく瀬戸内の海岸にバイクを飛ばした。この場所から逃げ出したいと思っていた。噂好きで、人と違うことをする人間を嫌う。何かにつけて「女だからダメ」と言う。そんな人の多い田舎が大嫌いだった。
何が何でも漫画家になる。その一心だったけれど、団塊の世代の最後の年に生まれた私が幼い頃は、漫画は悪書扱いで、母をはじめ、周囲の大人は「漫画家になりたい」と言うと「何言ってるの?」「バカじゃないの?」という反応だった。
でも漫画家は、学歴も性別も年齢すら関係なく、実力で勝負できる。私には何もなかったから、そういう仕事につきたかった。そして一過性のヒットメーカーではなく、長く生き残る存在になりたい。死ぬまで漫画家でいるにはどうしたらいいのかと、デビュー前から考えていた。
とはいえ編集者の言いなりは嫌。100%、自分自身の考えを世に出して、それを認められたかった。「真面目」「いちず」「けなげ」な少女が出てくる、昔ながらの少女漫画は嫌いで、もっと不良性を帯びたものが描きたかった。女であっても、気に入らなかったら相手を殴るくらいのキャラクターにしたい。
少女の夢物語より、貧しい青年が犯罪に手を染めてのし上がるピカレスクロマンに引かれた。
中学生の頃、好きな小説で読書感想文を書く課題で、私が選んだのはドストエフスキーの「罪と罰」。高校時代の同じ課題ではスタンダール「赤と黒」だ。アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」も大好き。そして好きな映画の1、2、3位は「風と共に去りぬ」「ディア・ハンター」「アラビアのロレンス」。さらに、子供時代は見ることもできなかった貴族の世界を感じられるヴィスコンティ監督作……。
こうした昔の洋画の世界を、少女漫画で表現したかった。「かわいい女の子さえ描けばいいんでしょ」とバカにされていた少女漫画に、風景や建物、家具、車やバイクなど背景を精密に描き込んだ。光や影、アングルなども工夫した。私は1人で、映画のにおいのする漫画を作りたかったのだ。
結果「あなたが少女漫画の世界を広げた」と言ってもらえるならうれしい。「不良」「性描写」はもちろん「同性愛」「近親相姦(そうかん)」も1970年代から描いている。20年以上も連載し、累計発行部数が3000万部に及んだ「有閑倶楽部」はアクション・コメディだ。昔の少女漫画ではNGだったものを、じわじわと、ギリギリの際を攻めるように描いてきた。
私自身も不良っぽく振る舞ってきたが、恥ずかしながら、根はとても真面目。バイクに乗っていたのは、車酔いがひどく自動車が苦手だったからでもある。学校の成績は良かったし、家事全般は一応、何でもできる。自分中心ではなく、自分以外を中心にしても考え、行動できる大人になりたいという目標も持っていた。半面、このような真面目さを、人に見せるのはかっこ悪いとも思ってきた。いわば「真面目な不良」なのだ。
真面目に漫画を頑張りすぎて、重い腱鞘(けんしょう)炎を患い、緑内障も悪化、今は漫画の仕事は控えているが、私の人生は漫画に捧(ささ)げたと思っている。そんな私のこれまでを、振り返ってみよう。(漫画家)
=題字も筆者
【図・写真】最近の筆者
岡藤正広(30) あの日の約束 「日本一」と誇れる会社に トップ15年、最後の仕事(私の履歴書)終[2025/01/31 日本経済新聞 朝刊 42ページ 1402文字 PDF有 書誌情報]
こういうのを虫の知らせと言うのだろうか。ふと、かつての戦友のことを思い出した。私に営業のイロハを教えてくれた峠一さんだ。
「そういや、峠さんはどうしてるんやろう」。共通の知人に聞くと、その人が大阪にある峠さんの自宅を訪ねてくれた。空き家になっていたという。お隣さんに聞くと、峠さんはすでに亡くなっていた。晩年はご家族とも疎遠になり、孤独死だったという。私が2010年に社長になって1年近くたった頃のことだ。
「俺はいつか日本一の商社マンになってみせる」。そんな夢を峠さんに語った若き日から40年余り。伊藤忠商事を率いてがむしゃらに駆け抜けてきた。不安でいっぱいだった就任当初を思えば、よくがんばったものだろう。
それでも思う。私はあの日の、峠さんとの約束をかなえたと言えるだろうか。
伊藤忠のトップを拝命して15年。当初は社長を6年やって後任にバトンを託そうと考えていたことを思えば、ずいぶんと長い時間が過ぎた。日本経済新聞の担当記者からは毎年のように「いつまで現役を?」と聞かれるが、私の仕事はまだ完結していない。
業績や市場からの評価では財閥系と伍するところまできた。だが、私は伊藤忠をもっと良い会社にしなければならない。そう心に誓ったのが20年7月のことだ。苦労を重ねて私と弟を育ててくれた母が息を引き取った。最期に手を取ると、もう私の手を握り返す力も残っていなかった。
今でも後悔している。最期にたったひと言でいい。おふくろに感謝の思いを伝えたかった。新型コロナウイルスのため5月に迎えた93歳の誕生日を家族で祝ってやれなかったことが心底悔やまれる。
飲んだくれのオヤジが転落する中で一家を支えてくれたおふくろ。街に住友銀行(当時)の独身寮ができると近所でちょっとした話題になり、エリートたちが暮らす立派な建物をうらやましそうに眺めていた姿を思い出す。
私たち兄弟に「将来は大企業に行ってな」と言うようになったのはあの頃からだ。借金取りに追われるような生活からは抜け出してほしいという、切なる願いだった。
伊藤忠をどんな会社にしたいか。その尺度は業績や株価だけではない。それより社員たちが家族や世間に誇れるような立派な会社にしたい。
あの時のおふくろに「少しは恩返しできたでしょ」と胸を張って言えるような。最期に手を握った時、伝えられなかった感謝の言葉に代えられるような――。その高みには、まだ達していない。
もちろん、いつまでも現役というわけにもいくまい。後継者はまだ決めていないが意中の人は複数いる。若い人が割って入る可能性も大いにあるし、期待したいところだ。
ビジネスの世界では厳しい競争が待っている。より良い明日をつかむために、我々は勝たなければならない。だから後継者には商売の勝負勘を持ち、勝ちグセを身につけているかを問いたい。
だが、それだけでは不十分だろう。社員たち一人ひとりを思いやれる寛大さを持つ人に、この会社のバトンを託したいと思っている。
かつて峠さんに「日本一の商社マンになる」と約束した。経営者となった今はどうか。伊藤忠を社員たちが誇れるような、天国の母に誇れるような日本一の会社にしてみせる。それこそが私にとっての約束であり最後になすべき仕事だ。
(伊藤忠商事会長CEO)
=おわり
あすから漫画家 一条ゆかり氏
【図・写真】私には胸に秘めた目標がある(東京都港区の本社)